【 #Web東京民報 連載】文学散歩 漱石・人間交差点①I love youをどう訳す 池内俊雄
- 2022/2/20
- WEB版連載

一高や帝大で教鞭をとった夏目金之助(漱石)が、「I love you」を生徒が「我汝を愛す」と訳したのに対して、「『今夜は月が綺麗ですね』とでもしておけ」と語ったというエピソードは有名である。この逸話が本当なのかどうか、またどこで誰に対して言ったのか、事実関係の詮索はここでは本題ではないので深入りしない。しかしそれが事実ではなかったにしても、金之助にはそう語り継がれるのに十分な翻訳に対する思慮が働いていたことは、小説『三四郎』の中の一場面からも裏付けることが可能である。
『三四郎』の第十二章で、文藝協会の講演を見に行った三四郎の感想として、次のように述べている。
…そのかわり台詞は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏もある。…それでいて、気が乗らない。三四郎はハムレットがもう少し日本人じみたことを言ってくれればいいと思った。おっかさん、それじゃお父さんにすまないじゃありませんかと言いそうなところで、急にアポロなどを引き合いに出して、のんきにやってしまう。…決してつまらないと思い切るほどの勇気はでなかった。

これは、坪内逍遥の主宰する文藝協会の第二回目の公演(1907年11月)を下敷きにしている。さらに4年後の日記に「帝国劇場へハムレット劇を見に行く」とあり、「坪内さんがあんなに沙翁(シェークスピア)にはまり込まないうちに、注意して翻へさせるとよかった」と、三四郎と同様の感想を書き残している。『三四郎』の中では、ハムレットに飽きた三四郎は女主人公の美子のほうを見ていたが、1911年の公演では、金之助は聞くに忍びず途中で退席したようである。
1892年に東京専門学校の講師となり、1907年頃には早稲田大学への職を斡旋され、金之助は坪内逍遥に対して何らかの恩義と先駆者としての努力は認める一方、同じ沙翁を研究する者として、受け手側の度量をおもんぱからない直輸入的な翻訳や演出に対しては、「折角の美しいものを台無し」にしてしまったと公言してはばからなかった。いくらその道の先達とは言え、金之助は逍遥のあるべき演劇の理想を日本で完遂させることの難しさを見抜いていた節があり、金之助が危惧したように、逍遥の上演は決して世間から幅広い評価を得たとは言えなかった。金之助が早稲田での職を遠慮したのも、逍遥との考え方に隔たりが大きく、沙翁を巡って衝突する危険を察知していたのかもしれない。(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年2月2日号より〉