【 #Web東京民報 連載】文学散歩 漱石・人間交差点 ②まぼろしの姉弟関係、樋口奈津(一葉) 池内俊雄

 喜久井町の名主を勤めていた金之助(漱石)の父、夏目小兵衛こへえ直克は、幕府の瓦解によりその職を失い、府庁を経て警視庁に勤めた。名主として一時は権勢を誇ったものの、すでに高齢で役所勤めの経験もなく、部下の樋口則義が手際よく実務を取り仕切っていた。直克はそんな樋口を重宝する一方、生活に困窮していた樋口に度々金を工面した。樋口と同じ山下町の官舎に住んでいた直克の長男大一に、則義の次女の奈津(夏=一葉)との縁談話が持ち上がった。家勢が衰えたとは言え名主の家柄であり、また男ぶりもよかった大一に、才女の誉れ高かった奈津は相応しい相手と推す声もあった。しかし、吝嗇で金之助ですら嫌っていた直克は、樋口の娘を長兄の嫁に迎えれば、傾きかけている夏目の家運が悪化するのを懸念し、結局この縁談は流れてしまった。

樋口奈津も使った古井戸(文京区本郷) 明治23年9月から明治26年7月に下谷龍泉寺町に引っ越すまで、奈津は母と妹の三人で菊坂下で暮らした。奈津が使った井戸は釣瓶式ではなくなったが、今も残る。ただ、周辺の開発が進んで水脈が変わったのか、水は出なくなった。

 明治20年(1887年)の3月大一が31才で死去、次兄の栄之助も相次いで病死し、夏目家の跡目が三男直矩だけになってしまったので、父直克は養子に出した金之助の塩原姓からの復籍を急ぐことになる。しかし、金之助をまるで物か猫のように都合で売買する父親の態度に愛想を尽かし、金之助は夏目家を継ぐことを断固拒否、熊本五高に移った翌明治30年に父直克は84歳で没し、喜久井町の家も人の手に渡ってしまった。

 一方の奈津(一葉)は、明治20年に一番上の兄泉太郎を、22年に父を失い、中島歌子の結社「萩の屋」に住み込むも半年程で辞し、菊坂下に母と妹の三人で住んで、内職で糊口をしのいだ。明治26年には下谷龍泉寺町に移って雑貨店を開き、ここでの体験が後々の小説の題材となった。明治27年に菊坂に近い丸山福山町に引っ越し、明治29年11月に肺結核で亡くなるまでの間に、数々の名作をなした。

 金之助が父直克の死去の報をうけ、学年末試験を済ませてようやく7月に上京した際、寄寓先の義父の官舎で『たけくらべ』などを読んで、「男でもなかなかこれだけ書けるものはない」と感嘆していたことが、妻の鏡子の記述『漱石の思い出』にみられる(第六章「上京」)。

 奈津の葬送の様子を副島八十六は『日誌』で、以下のように伝えている。

 今此葬儀中擔夫、人足、車夫等の営業者を除く時は、真実葬儀に列するもの親戚知友を合して僅に十有余名に過ぎず。洵に寂々寥々仮令裏店の貧乏人の葬式といへども此れより簡なることはあるべからず。如何に思ひ直すとも文名四方に揚り奇才江湖い顕如たる一葉女史の葬儀とは信じ得べからず。

(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)

〈東京民報 2020年2月16日号より〉

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