【 #Web東京民報 連載】文学散歩 漱石・人間交差点 ④漱石の後見者、菅虎雄 池内俊雄
- 2022/3/13
- WEB版連載

金之助(漱石)から大きな影響を受けた、あるいは逆に与えた人は数多い。その一方で、金之助が精神的に参ったり自暴自棄になった際、まるで親鳥がヒナを暖かく翼で覆うように、陰で支えた人もいる。家庭的には決して恵まれているとは言えない青年期、道を外れることなく謳歌できた背景には、兄のように金之助を見守っていた菅虎雄の存在を見逃す訳にはいかないであろう。
菅虎雄は久留米藩有馬家の御典医の家に生まれ、明治14年(1881年)、17歳の年に東京大学医学部予科に入った。医学を修めるにはドイツ語の勉強が必要で、呉秀三と藤代禎輔の3人で文科に転じることを話し合ったが、呉は家のものに説得されてそのまま医科本科に進んだ。
明治27年の夏「沸騰せる脳漿を冷却」するために金之助は帝大の寮を飛び出し、松島や湘南の海岸を彷徨したのち、小石川指ヶ谷の菅虎雄の家に暫時寄寓し、法蔵院に蟄居した。菅の家に身を寄せていた間「菅君を驚かすやうなことがあったのだが、……自分が語るべきではない」と狩野亨吉が後に振返っている。「菅君を驚かすやうなこと」とは、金之助が入り婿候補に上がっていた相手、大塚楠緒子との直談判のようなものと想像されるが、意味する内容は関係する者が皆口を閉ざしているので不明である。
その年の末、菅の紹介で鎌倉帰源院にこもり、釈宗演が与えた「父母未生以前本来の面目」という公案に答えを見いだそうとしたが、翌一月、むなしく帰京した。その際の苦悶は『門』に見ることができる。

その後も菅は事ある毎に金之助に救済の手を差しのべ、松山の尋常中学、五高の英語教授の職を口添えしている。また英国留学中に「夏目狂セリ」とのうわさが日本にもたらされた時、妻の鏡子が心配すると菅は「手紙が自分で書けるくらいなら大丈夫ですな」とうなずき、「外に体が悪くさへなければよいのだ」と答えている。また、先に死んだものが相手の墓の銘を書く約束を交わすほど、金之助は菅に絶大なる信頼を寄せ、菅も生前から授けられた居士号「無為」にふさわしい枯淡な交際を続けた。
医科から文科のドイツ文学科に移り、さらに書の道でも大成した菅虎雄は昭和18年(1933年)に亡くなり、遺骨は久留米藩主の菩提寺である梅林寺に葬られた。昭和47年、その遺墨集が一高教頭の亀井高孝らの手で編さんされ、平成25年(2013年)には「漱石句碑・菅虎雄先生顕彰碑」が同寺外苑に建立された。句碑には金之助が鏡子と訪れた際に詠んだ「碧巌を提唱す山内の夜ぞ長き」の句が刻まれている。
(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年3月15日号より〉