【 #Web東京民報 連載】⑤精神医療に一石を投じた、呉秀三 池内俊雄
- 2022/3/20
- WEB版連載
前回取り上げた菅虎雄や藤代禎てい輔とともに、一度は文科に転じることを考えた呉秀三は医科に留まり、明治18年(1885年)に20歳で東京大学医学部本科に進んだ。明治23年に大学院に入り精神病学を専攻、翌24年には早くも助手、29年には助教授に任命された。明治30年にドイツ・オーストリアへ留学、その期間中に学位を授与され、明治34年に帰国。帝大医科大学教授に任ぜられると同時に巣鴨病院医長を兼務し、従来から行なわれていた手革・足革による身体拘束を廃し、作業療法を導入するなど精神病患者の処遇改善を試みる傍ら、日本神経学会を立ち上げた。
明治36年に金之助(漱石)は英国での留学を終えて帰国。籍のある熊本の五高へ戻るのを好まず、狩野亨吉や大塚保治らの取り計らいで一高と帝大に講師の職を得たが、五高を辞するにあたって診断書が必要となり、金之助は菅虎雄に「呉秀三君に小生が神経衰弱なる旨の診断書を書て呉る様依頼して被下間舗くだされまじく候や小生は一度倫敦ロンドンにて面会致候事あれど君程懇意ならず」と認めた。診断書の存在は確認されていないが、金之助は大きな悶着もんちゃくもなく五高を辞すことができ、東京での生活が始まった。赴任後間もなく生徒の藤村操が華厳の滝に身を投げたこともあり、金之助の癇癪かんしゃくが激しさを増すので、主治医の尼子四郎だけでは手に負えず、呉秀三に診てもらうと「ああいふ病気は一生なほりきるといふことがないものだ」と説明され、別居中であった妻の鏡子も覚悟が決まり、夏目家に子どもと共に戻った。
一方の呉は当時まだ一般的であった「私宅監置(=座敷牢)」の実態調査に乗り出し、6年の歳月をかけて『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』にまとめた(大正7年)。11年間閉じ込められたままの患者。高さ1・2メートルの一室に転がされて立つこともできない裸の男性。釘が打ち付けられた出入り口、などなど。呉は精神病という不幸の上に、この国に生まれた不幸が二重にのし掛かっていると主張した。
呉と金之助の間には、菅虎雄や尼子四郎などの共通の友が存在し、また、呉は森林太郎(鴎外)が主宰する雑誌に寄稿したり句会にも参加するなど、終生文学との関わりを保ち続けたのに、金之助との交際には見るべきほどの進展は生じなかった。うがった見方ではあるが、重度の精神病のために一人の人間としてまともに扱ってもらえない人々と比べれば、金之助の頭の不具合はぜいたくな部類で、五高は嫌で一高・帝大なら勤めるという漱石の言い分のために診断を下した呉は、内心ではそれを潔しとしなかったのではないだろうか。
(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年3月29日号より〉