【 #Web東京民報 連載】⑥無妻主義を誓い合った友、中村是公
- 2022/3/27
- WEB版連載

旧姓柴野是公(よしこと)は慶応3年(1867年)に安芸国佐伯郡の造り酒屋・庄屋に生まれ、明治16年(1883年)に尋常中学を出ると同郷の龍口了信と二人で歩いて上京、翌17年に九段坂上の富士見町に下宿しながら、猿楽町の明治英学校に通った。同年9月に東京大学予備門に是公や金之助(漱石)らが揃って入学、翌18年に猿楽町の末富屋に移り、成立学舎出身のものが中心になって「十人会」を立ち上げた。
明治18年の6月頃、十人会で江の島へ遠足に行き、以前に江の島へ来たことのある是公が先達となったが、潮が高くて島へ渡れず、対岸の砂浜で野宿する羽目になった。翌朝徒歩渡りの人夫に金之助一人が背負われ、他のメンバーはそれに付き従って島へ渡った。後に満州鉄道の総裁になって金之助を満州に招待した際、「草木の風に靡(なび)く様を戦々兢々(きょうきょう)と真面目に形容したのは是公が嚆矢なので、夫から当分の間は是公の事を、みんなが戦々兢々と号していた、当人丈は、未だに戦々兢々で差支えないと信じているかもしれない」と回顧している。

また是公はボートや中距離走の名手で、対外試合で一等になった報奨金でシェークスピアの作品を買い、惜しげもなく金之助に献じた。小説には興味がなくスポーツに没頭し、法科卒業後は秋田県収税長を皮切りに、台湾総督府、満州鉄道で頭角を現し、満鉄の総裁を経て、貴族院議員、東京市長まで勤めた。
金之助に「うまいものを喰わせてやる」が誘う時の口癖で、満鉄の宣伝を兼ねて金之助を満州まで講演に招いたり、帰国時には相撲を見に行ったり、塩原や湯河原などの温泉に連れ出すなど、豪放磊らい落らくで些事に纏綿(てんめん)しない性格は金之助とは対照的でありながら、磁石のS極とN極が引かれ合うように、二人は予備門時代に同じ釜の飯を喰った時の「ぜこう」と「金ちゃん」の関係を続けた。
是公が金之助と同じ胃病で死去した時、『東京朝日新聞』は、中村、夏目、狩野(亨吉博士)の三人は無妻主義の誓いを立てていた旨を報じた。真偽の程はさておき、二人が親密な青春時代を過ごしたことを彷彿ほうふつとさせるエピソードである。
それは、江東義塾で教師をしながら下宿生活を送った時のことを「部屋の内が薄暗くなると、寒いのを思ひ切って、窓障子を明け放つたものである。其の時窓の真下の家の、竹格子の奥に若い娘がぼんやり立つている事があつた。静かな夕暮れ抔などは其の娘の顔も姿も際立つて美しく見えた。折々はあゝ美しいなと思つて、しばらく見下している事もあつた。けれども中村には何にも言はなかつた。中村も何も言はなかつた」と『永日小品』の中で描写していることからもうかがわれる。これに似た場面設定は、『虞美人草』や『行人』の中にも見られる。
(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年4月12日号より〉