この本は「昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時に満20歳未満だった女性によるエッセイを収録したもの」(編集部)。27人のうち最年長は瀬戸内寂聴19歳、最年少は佐野洋子3歳。
1931年9月満州事変、37年7月日中戦争、45年8月敗戦という、非日常が日常であった日々の、少女たちの目でみた戦時下のリアルです。

1430円(税込)
太平洋戦争開戦80年企画。開戦時20歳未満の27人の女性たちによる、戦時の日常を描いた随筆を精選
うち5人は満州、上海、インドネシア、サハリン、大連に住み、「大日本帝国」が「世界に冠たる日本」として「南方進出」した時代だった。その理屈は「イギリスはアヘン戦争をしかけて中国を侵略し、フランス、オランダもアジアの各地を植民地にしている。列強の侵略からアジアを解放し、大東亜共栄圏を築く聖戦だ」(津村節子)と教えこまれていた。
大学が閉鎖され海軍経理部に勤めていた橋田壽賀子は「とにかくアメリカ兵が進駐してくる前に重要書類を焼却せよ」との命で三日三晩ほとんど寝ずに燃やした。
新川和江は女学校の教室がつぶされ、旋盤やターレットという機械が運び込まれ兵器工場と化した中、「片道燃料で敵の航空母艦に突っ込んで行く特攻機の部品」を作らされた。
女学生だった茨木のり子は、進駐軍を恐れ娘の操を守るべく丸坊主になってしまった友人と頭巾を被っての登校の日々、「ああ、私はいま、はたちなのね」としみじみ。「けれどその若さは誰からも一顧だに与えられず」この体験の中から代表作『わたしが一番きれいだったとき』が生まれた。
向田邦子は東京大空襲の夜を活写。女学校3年の時、三方を火に囲まれもはやこれまでという時に―どうしたわけか我が隣組だけが嘘のように焼け残っていた。「父はこの次は必ずやられる、最後はうまいものを食べて死のうと、とっておきをかき集め精進揚げを作りお腹いっぱい食べてからおやこ五人河岸のマグロのように並んで昼寝した」と、惨劇の夜がおかしくも哀しい。
「敵基地攻撃」などという言葉が新聞紙上に踊る。戦争は遠いどこかの国にあるのではなく眼前にある。少女たちにもうこんな体験をさせたくない。(なかしまのぶこ・元図書館員)
(東京民報2022年1月23日号より)