【 #Web東京民報 連載】⑩金之助の縁談に関与した正岡常規(子規)〔下〕池内俊雄
- 2022/6/5
- WEB版連載

…元来小生の漂泊はこの三、四年来沸騰せる脳漿を冷却して尺寸の勉強心を振興せんためにのみ御座候。…、何分その甲斐なく理性と感情の戦争益劇しあたかも虚空につるし上げられた人間の如くにて、天上に登るか奈落に沈むか運命の定まるまで安心立命到底無覚束候。 …(漱石・明治27年〈1894年〉9月4日)
前号からの書簡にある断片的な情報からは、眼科医でみた女性が果たして誰なのか、あるいはこの期間ずっと同一の女性に思いを寄せていたのかは明らかではないが、金之助(漱石)が常規(子規)に自分の切ない胸中を明かしていたのは間違いない。それは、後の明治29年には結婚することとなる中根鏡子との縁談を進める際も、松山にいて自由の利かない金之助が生家との交渉役を子規に託していたことからもうかがわれ、常規が金之助の身の回りの事情に詳しかったからであろう。9月24日付けの書簡では「運命の定まるまで」とあり、恋心を抱いていた大塚楠緒子の小屋保治との見合いの結果次第で、自分は天に登るか奈落の底に沈むのかが決まる、つまりは自分の努力だけでは如何ともし難い微妙な立場=「待つ戀(こい)」に置かれていたことを指していると解釈できる。

果たして金之助が悪い方に予想していた通り、「待つ戀」は無惨に散り、第4話の「漱石の後見者、菅虎雄」で既に書いたように、金之助は帝大の寮を出て各地を転々とし、新婚の菅の家に暫時(ざんじ)身を寄せた後法蔵院に蟄居(ちっきょ)した。寮では、結果として恋敵になった小屋保治が同室か向かいの部屋に住まっていたので、金之助が寮を飛び出したのは当然であろう。
また菅の家に居た間に「菅君を驚かすやうなこと」が起きた。その内容を知っている帝大の者は皆血判状でも書いたかのように、口を閉ざして語ることはなかった。筆者は、当事者の大塚楠緒子が金之助の真意を確かめに尋ねてきたのではないかと見ているが、推測の域を出ていない。人の耳目に耐えかねた金之助が松山に落ちた背後には、こうした事情が潜んでいるとみて差し支えない。
中根鏡子との見合いについては、「写真で取極候(そうろう)事故(ゆえ)当人に逢た上でもし別人なら破談するまでの事とは兼ねてよりの決心」とあり、予め交換してあった写真と人物が異なれば、断る腹づもりであった。鏡子の家のほうでも「きまったつもりで話をするな」と父重一が母に釘をさしていて、「うつくしい家庭」を「うつくしい細君」と送る理想の詩的生活を夢見ていた金之助にとって、半ば投げ遣りな面も否定できない縁談話であり、明治28年の末、冬休みを利用して金之助は単身で見合いの席に臨んだのであった。
(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年6月14日号より〉