JR武蔵五日市駅を降りて3㌔ほど山道をのぼったところに、深澤家屋敷跡(あきる野市)があります。同屋敷跡は、いまから一世紀半ほど昔、自由民権運動の揺籃のなかでつくられた「五日市憲法草案(正式名称は「日本帝国憲法」。五日市郷土館で複製展示)が発見された場所です。
現在は、屋敷地を囲む塀と門、土蔵が残されていますが、草案がつくられてから87年を経た1968年に東京経済大学の色川大吉教授が率いるゼミの調査で、開かずの蔵のなかから見つけ出されたものです。
日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ、他ヨリ妨害ス可ラス、且国法之ヲ保護ス可シ
これは「五日市憲法草案」のなかの「公法」と題された条項のひとつですが、国民の権利と自由の保障、妨害の禁止、国が法を守ることを義務づけるものとなっています。他にも国民の権利としての思想・言論の自由、結社・集会の自由、教育の自由などにくわえ地方自治、さらには三権分立など現憲法に通じる民主的な内容で構成されていました。
この点について、色川大吉教授は「国民の権利に(略)百五十余もの条文をさいている草案は、他に見当たらない」と述べ、明治憲法成立史に詳しい稲田正次東京教育大学名誉教授は「国民の基本的権利についてきわめて詳細な規定を設けて強く保障し、国会の権限も広くみとめ、議院内閣制を明定し、司法権の独立を強調していることなどからいってかなり民主的立憲的要素の大きい憲法草案といえると思う」と高く評価しています。
当時の五日市は江戸期からの黒八丈の織物や材木などで栄え、横浜の開港後は西欧との窓口となった横浜と「絹の道」を通じて交流を深め、「五日市学芸講談会」などが活発に開かれ自由民権運動の拠点となっていました。また、豪農家であった深澤家には西欧各国の憲法や思想書など数多くの文献・資料があつめられ、誰にでも開放されていて知的土壌がつくられていました。
人民による憲法の提案は第2次世界大戦後の新憲法制定に向けても二十もの憲法草案が策定されるなど取り組まれ、なかでも政府とGHQに提出された「憲法草案要綱」は、自由民権運動における憲法草案の研究者が策定したものでGHQの憲法案のたたき台になったものです。
教科書裁判の家永三郎教授は「マッカーサー案自体が(略)日本国民の間で自主的に起草された民間憲法草案の内容が大幅」に取り入れられていると指摘しています。現憲法の源流に自由民権運動の創憲の取り組みがあったのです。