【 #Web東京民報 連載】⑫新米には負担の大きかった金之助の治療 池内俊雄
- 2022/7/3
- WEB版連載
森成麟造(1884─1955)は新潟県東頸城郡真荻平村(現上越市安塚区)の生まれ。父の章治は戸長や議員を務めた地元の名士であった。麟造は頸城中学(現高田高校)から仙台の第二高等中学医学部に進み、明治39年(1906年)卒業と同時に長与胃腸病院に勤めた。前年の満韓への旅行中から胃の不調を訴え、胃潰瘍と診断された金之助(漱石)は明治43年6月に同病院に入院。ここで森成医師は金之助と出会った。7月末日に退院し、伊豆の修善寺へ転地療養。門下生で宮内庁に奉職していた松根豊次郎が北白川若宮様の御供で菊屋旅館に滞在するというので、金之助は8月6日に安心して出かけたが、湯治が逆に禍いしたのか、胃痙攣を起こして病状は悪化。8月17日に朝日新聞社の松崎天明氏が長与病院を訪れて金之助の往診を依頼。医院長自身が病でふせっていた為、杉本副医院長と協議の末、18日に森成医師が朝日新聞社の坂本雪鳥と共に修善寺へ駆けつけた。
病状は思わしくなく、近隣に応対可能な医院もない。元々数日だけの予定で来たので準備も充分ではない。鏡子婦人とも相談の上「ナツメ ヤマヒ キケン ボクカヘルヤイナヤ」と医院長宛てに打電。「ソノチ ニ トドマリ カンゴニドリョクセヨ」との返事あり。新米の森成には負担が重く「フクイインチョウノ ライシン タノム」と追って打電した。24日に副院長が到着。その晩二度に分けて約500グラムの血を吐き、金之助は30分程人事不省に陥った。森成医師がカンフル15本、食塩水を立て続けに打つと、微かに脈が戻り「私はまだ死にませんよ」と言って金之助は目を開けた。これが所謂「修善寺の大患」の概略である。副医院長はすぐに帰京し、森成医師も理由を告げず二度東京に戻った。これは医院長を見舞う目的と葬儀のためであった。金之助は10月11日に東京駅で森成医師らの出迎えを受け、釣台に乗ったまま病院へ直行。その様を「一回目の葬儀」のようであったと回顧している(『思ひ出す事など』)。
翌40年2月末に退院。同年4月12日、森成医師が郷里で開業するに際し早稲田南町の自宅で送別会を開き、森成医師が臓物を好んだので「肝臓会」と名付けた。服部時計店から銀製のシガレットケースを幾つか取り寄せ、本人にも意見を聞いて、つや消しのものに謝辞と「朝寒も夜寒も人の情かな」の句を彫って贈った。明治44年高田で講演を行い、また森成医師の高田本町の家にも泊まった。金之助の手許には、越後名物の「笹飴」が届けられるなど、やり取りは終生続いた。地元では考古・民族学の興隆につとめ『頸城文化』を刊行した。昭和30年に71歳で亡くなった。病院は婿養子の禎二氏が継いだ。
(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年7月12日号より〉