【 #Web東京民報 連載】⑭終生心に痛手を負った、大塚保治〔下〕  池内俊雄

 帝大の寮を出て小石川の法蔵院に蟄居(ちっきょ)した金之助(漱石)にとって、明治28年(1985年)は人生の一大転機の年であった。2月に小屋保治は大塚楠緒子と結納を交わし、3月4日入籍の後7日に大塚の姓となった。16日に結婚披露宴が星岡茶寮で開かれ、金之助は40人を超える帝大の関係者・卒業者、学生らと共に、潔く出席した。当日の服装について「懇意な友人の新婚披露宴に招かれて星が岡の茶寮に行った時も、着るものがないので、袴羽織共凡て兄のを借りて間に合わせた事もあった(『道草 三十三』)」と書き、その羽織袴を「ただ自分の着ている羽織を淋しそうに眺めた。その羽織は古い絽の紋付に違いなかったが、悪く云えば申し訳の為に破けずにいる位見すぼらしい程度のものであった」と説明している。寂しそうに見えたのは羽織袴だけではなく、自分の姿ですら他人の目にはそう映ったに違いない。 

大塚保治記念文庫の蔵書印 大塚保治が美学教室に寄贈した本に添付されている蔵書印。新海竹太郎の手による。蔵書印は本に直接押されたものではく、別紙に押したものを後から貼り付けた格好になっている。海老茶色が選ばれた理由は、亡くなった楠緒子が好んだ袴の色に拠ると思われる。東京大学文学部美学教室提供。

 しかし、金之助が姿を見せなければ、余計な憶測を生むことになるばかりか、保治と交わした何らかの「取り引き」を一方的に破ることになるので、「世間の手前とか義理とかで、いくら云いたくても云えないことが沢山ある(『道草 十二』)」のを堪えながら、公開処刑にも似た覚悟で披露宴に臨んだのであろう。しかし金之助が「精神的に敗残した」はずでも、生涯負い目を拭えなかったのは逆に保治のほうであった。

 肋膜炎から35年の生涯を閉じた楠緒子を弔いに、大塚家に上がった長谷川時雨は、金之助が朝日新聞に連載した『硝子戸の中』の楠緒子にまつわる部分を読んで、「漸く忘れようとすることが出来かけたのに、あれを見てからまた一層思い出す」と、保治の悲しみに打ちひしがれた姿を紹介しているが(『婦人画報(一九一五年十月)』)、「有る程の菊投げ入れよ棺の中」の句によって、過去の思い出とともに楠緒子を心の隅から葬り去ることができた金之助に対し、保治はその痛手から容易に立ち直れなかったのであろう。

 金之助は小説『行人』の中で主人公の口を借りて、「道徳に加勢するものは一時の勝利者に違いないが、永遠の敗北者だ。自然に従うものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利だ(『行人・帰ってから・二十八』)」と書き、義侠心、あるいは何らの地位と相殺に、楠緒子をめぐる結婚レースから下りた自分を「永遠の敗北者」と位置づけていた。しかし、楠緒子と結婚に至った保治の胸の内はなかなか表に出ることがなく、寧ろ金之助よりもその苦悩は深く、楠緒子の死後も癒えることはなかったように思われる。〈IN MEMORIAM OF OTUKA KUSUO〉という蔵書印に、その闇の大きさがまざまざと刻み込まれている。

(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)

〈東京民報 2020年8月9,16日号より〉

関連記事

最近の記事

  1. 杉並区 予算案を可決  杉並区議会は18日、岸本聡子区長が提案する2024年度一般会計当初予…
  2. 1面2面3面4面 【1面】 全盲の学生 「自分の力で通学したい」 大学前に音響信号ついた…
  3. 日本記者クラブで講演=3月19日、千代田区  新たな任務にたくさんの激励、期待の声をいただい…
  4.  自民党の裏金問題をめぐる衆院政治倫理審査会に18日、下村博文元文部科学相が出席しました。下村氏は…
  5. 都庁の第庁舎に映し出されたPM映像  都が2月から新たな観光資源にするとして都庁舎の壁面に映…

インスタグラム開設しました!

 

東京民報のインスタグラムを開設しました。
ぜひ、フォローをお願いします!

@tokyominpo

Instagram

#東京民報 12月10日号4面は「東京で楽しむ星の話」。今年の #ふたご座流星群 は、8年に一度の好条件といいます。
#横田基地 に所属する特殊作戦機CV22オスプレイが11月29日午後、鹿児島県の屋久島沖で墜落しました。#オスプレイ が死亡を伴う事故を起こしたのは、日本国内では初めて。住民団体からは「私たちの頭上を飛ぶなど、とんでもない」との声が上がっています。
老舗パチンコメーカーの株式会社西陣が、従業員が救済を申し立てた東京都労働委員会(#都労委)の審問期日の12月20日に依願退職に応じない者を解雇するとの通知を送付しました。労働組合は「寒空の中、放り出すのか」として不当解雇撤回の救済を申し立てました。
「汚染が #横田基地 から流出したことは明らかだ」―都議会公営企業会計決算委で、#斉藤まりこ 都議(#日本共産党)は、都の研究所の過去の調査などをもとに、横田基地が #PFAS の主要な汚染源だと明らかにし、都に立ち入り調査を求めました。【12月3日号掲載】
東京都教育委員会が #立川高校 の夜間定時制の生徒募集を2025年度に停止する方針を打ち出したことを受けて、「#立川高校定時制の廃校に反対する会」「立川高等学校芙蓉会」(定時制同窓会)などは11月24日、JR立川駅前(立川市)で、方針撤回を求める宣伝を21人が参加して行いました。
「(知事選を前に)税金を原資に、町会・自治会を使って知事の宣伝をしているのは明らかだ」―13日の決算特別委員会で、#日本共産党 の #原田あきら 都議は、#小池百合子 知事の顔写真と名前、メッセージを掲載した都の防災啓発チラシについて追及しました。
ページ上部へ戻る