【 #Web東京民報 連載】⑰『三四郎』に登場するイプセンの女〔上〕

 

 森田草平の回顧によれば、女性の持つ「みづから識らざる偽善者(アンコンシャス・ヒポクリット)」像として金之助が描いたのが『三四郎』の中の「里見美子」である。草平から見れば、美子は心中未遂で世間を騒がせることになった平塚明(らいてう)であり、金之助にすれば、同じ帝大の寮生小屋保治と共に入婿候補に上がった相手、大塚楠緒子である。金之助が寮を飛び出して新婚の菅虎雄の指ヶ谷の家に寄寓していた間「菅君を驚かすやうなこと」が発生したが、恐らくそれは草平の心中未遂に匹敵する出来事であったと推測される。その後、金之助は法蔵院に逼塞(ひっそく)して「有髪の僧」となり、鎌倉の帰源院に参禅して、釈宗演が与えた「父母未生以前本来の面目」という公案に答えを見いだそうとしたが、十日程で虚しく下山した。

西片町公園の椎の木(文京区西片) 本郷区西片町十ハの三に大塚保治・楠緒子の家があった。そのすぐ前が現在の西片町公園で、シンボル的な存在であった楠の大木は世代が交代し、石碑が残っている。

 上京して間もない帝大生三四郎が象徴するように、初心な学生には誰しも心を惑わされたほろ苦い経験があり、金之助は自身を振返って、教え子や出入りする若いものに、「女性の験を担ぐ」危うさを警鐘したのが『三四郎』である。

 後の小説は洗練されて無駄は少ないが、読み返す度に新しい発見があるのが『三四郎』だと言われる。作品としてはまだ生硬で荒削りな部分があるものの、登場人物の描写には溌剌とした生気が漲っている。

 美子の人物像の一端をなすのが大塚楠緒子である左証は、小説の中のさり気ない言葉に暗示されている。三四郎池の辺で頭には真白い薔薇を挿し、団扇を翳(かざ)していた女性に、白衣の看護婦が「これは椎」と教える。楠緒子は竹柏会の『こころ乃花(第九巻第一)』に「椎の木」という短文を寄せている(明治三十七年)。また、三四郎がよし子と美子にどの香水がよいかと聞かれて「ヘリオトロープ」と書かれた瓶を勧める場面がある。このヘリオトロープも、楠緒子の同名の短文『へりおとろーぷ(『帝国文学八号三巻』明治三十五年)』を意識したものであろう。美子は「それにしましょう」と即座に返事をしている。また、広田先生の転居先が「西片町への三号」に設定されているが、これは大塚保治と楠緒子の住居が「西片町ハの三号」にあったのを捩(もじ)ったものであろう。後に楠緒子は同じ西片町のろの十一に移っている。愛用のピアノが重荷になりながらも敢行したのは、保治の浮気が原因とされ、事実上の別居であった。

 大塚保治が生前ほとんど著述をなさなかったことは前回触れたが、『こころ乃花(第九巻第一)』に「イプセンの社会劇人形の家に就て」という正味9ページ程の文章を寄せている。楠緒子が保治の留学から戻る前に発足させた「すみれ会」での談話を筆記したものである。保治は留学先で見聞した「新しい女」たちが美術や文学に吹き込んだ新しいうねりを日本に紹介したのだが、その矛先が自分の方に向かってくるとは予測できなかったのであろう。

(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)

〈東京民報 2020年9月27日号より〉

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