【 #Web東京民報 連載】⑳猫の面目躍如、橋口清(五葉)

 金之助(漱石)が熊本の五高に勤務していた時、教え子の中に橋口貢がいた。貢には二人の弟がいて、上が半次郎、下を清(後の五葉)といった。清は先に東京に出ていた二人の兄を頼って明治32(1899)年に上京、日本画を橋本雅邦に、西洋画を白馬会で学んだ。東京美術学校予科を経て本科に進み、西洋画を専攻した。

 金之助が『ホトトギス』の絵を貢に頼んだところ、貢はまだ無名であった弟の清に描かせるよう依頼し、金之助は清に任せた。これが二人の最初の出合いである。『我輩ハ猫デアル(八)』の中で、迷亭が雁を喰う夢を見るが、これは明治37年に橋口兄弟の家で食べた雁の羹(あつもの)の美味さが忘れられなかった経験に基づいている。

五葉のアトリエ跡付近(港区赤坂) 橋口五葉の本名は清で、貢と半次郎の二人の兄がいた。九州から上京すると、最初は長兄貢のすむ下谷区谷中に、また大正2年に次兄がヨーロッパから戻ると、牛込区市谷に次兄と住んだ。半次郎が長崎に赴任するに伴い、長兄がいた赤坂台町に一時身を寄せ、大正5年の末にすぐそばの台町74にアトリエを構えた。初めての一人住まいはわずか4年と少々に過ぎず、40歳の短い生涯を閉じた。

 『ホトトギス』に清が最初のイラストを掲載した後、『我輩ハ猫デアル』が好評を博すと、金之助はその挿絵を清に描かせ「橋口君の画のほうがうまい様だ」と手放しで褒め上げ、単行本の装丁も清に依頼した。『虞美人草』、『草合』、『四編』など、典雅で絢爛(けんらん)なデザインが金之助の小説を一層引き立てた。

 橋口清をモデルにしたと思われる画家が『三四郎』に原口の名で登場する。風采やヘビースモーカーなのも共通していて、小説では曙町にあるアトリエも、実在のものとそっくりであったと、小宮豊隆が述べている(『三四郎』の材料)。『三四郎』の中で原口が描くのは「新しい女」を象徴する美子で、それは金之助が後の作品でも繰り返し訴えた「みづから識らざる偽善者(アンコンシャス・ヒポクリット)」像である。また三四郎は銭湯へ行って、板の間にかけてあった三越の看板の女の絵をながめるが、それが「どこか美子に似ている」と言わせている。

 明治40年6月、金之助が朝日新聞社に入って最初の作品『虞美人草』が連載されるに際し、三越では機先を制して「虞美人草浴衣」なるものを売り出し、「需要頗(すこぶる)多く、品の供給間に合ず」と購買意欲をそそる文句を並べ『時好(同社の販売促進誌)』の中で宣伝した。そうして明治44年。総額千五百円の懸賞金でポスターの図案を公募し、橋口清の『此美人』が見事一等を射止めた。その女性の服には、藤(= 虞美人草の女主人公「藤尾」のイメージ)と撫子(同じく、古風な「小夜」)が描かれている。金之助、清、三越、朝日新聞などの利害関係者の目論みが合致し、今でいうところの異業種間のコラボが実ったような事例である。清にとってこの入賞が大きな転機となり、以降美人画や浮世絵の復刻に進んでゆく。惜しいことに、これからという40才の若さで大正10年に亡くなった。

(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)

〈東京民報 2020年11月8日号より〉

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