【 #Web東京民報 連載】23 非人情の世界を演出した、前田卓子

 

金之助(漱石)が朝日新聞社に入る前に、『草枕』を「新小説」誌上に発表した。『草枕』には、五高の同僚山川信二郎と出かけた小天温泉での経験が敷衍(ふえん)されている。画家を称する「余」が那古井の山中の温泉に滞在し、「那美」さんという女性を画に収めようと苦心する。那美さんは、「余」が手遊びに詠んだ句を、部屋にいない間に添削したり、「余」が風呂に入っていると、那美さんが男湯に入ってきたりする。容姿端麗で才気に溢れ、謎めいた行動で「余」の気持ちを様々に惑わすのである。那美さんが男湯に入ってくる場面は、次のように描かれている。

 「…注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考ている間に、女の影は遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。漲り渡る湯咽りの、やわらかな光線を一分子ごとに含んで、薄紅の暖かに見える奥に、漾(ただよは)す黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈を、すらりと伸した女の姿を見た時は、礼儀の、作法の、風紀のという感じは悉ことごとく、わが脳裏を去って、ただひたすらに、美しい画題を見出し得たとのみ思った」

平林寺にある前田卓子の墓(埼玉県新座市) 卓子は妹槌子に請われて上京し、中国同盟会の機関紙『民報』の編集室で中国からの留学生の面倒をみた。異母弟の利鎌を養子にした。利鎌が学生時代に平林寺へ座禅に通った縁で、養母卓子は平林寺に眠る。昭和十三年に赤痢で没した。

 一方、鏡子の『漱石の思い出』で語られている様子は大きく異なる。

 「…その日のことを終っていざ湯に入って休みましょうと思って、女湯の方へ行ってみますと、ぬるくてとても入れません。男湯のほうはとのぞいてみますと、…驚いたことに夏目と山川さんが、しきりにおかしさをこらえて、茶目さんらしく灯影の当たらない浴槽の一隅に首だけ出していたというではありませんか。姉さんは真赤になって戸の外へ逃げ出したそうです」

 金之助は、実際にあった一瞬のできごとをヒントに、小説の中では見事な詩的世界を描いている。小説の志保田の娘、那美のモデルになったのは、小天(おあま)村の郷士・前田案山子の次女の卓子である。卓子は父親の別荘の離れで金之助らを歓待し、茶や青磁の器に盛ったようかんを出したそうである。

 『草枕』は『破戒』などの自然主義文学が重視した「写実主義」に対抗し、ただ美しいという余裕の趣が読者に伝わればそれで目論みは達せられると述べている(『余が草枕』)。また、登場する場面(停車場、志願兵、蒸気機関車、湯浴みのシーン)から、大塚楠緒子の先行する短編『応募兵』や『湯の香』を意識していると思われる。特に『湯の香』には「私それでは失禮ですけれども其の岩蔭に立って見せませうか、私神聖な美術家の方のお役に立つのなら、今時衣類を脱ぎましたって寒いとは思いません」とあり、金之助の小説に自分が題材として身を呈すという楠緒子の意思表示とも受け止めることができる。

(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)

〈東京民報 2020年12月20日号より〉

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