【 #Web東京民報 連載】24 金之助の死に顔を残した、新海竹太郎
- 2023/1/8
- WEB版連載
新海竹太郎は慶応4(1868)年に山形市の仏師の家に生まれ、始め家業を継いだものの、明治19(1886)年に士官を志して上京した。士官候補生にはなれなかったが、近衛騎兵隊にいる間、馬の彫刻が上官の目にとまったことが切っ掛けで、日清戦争の際台湾で没した北白川宮能久親王の像の制作を依頼されるに至った。
明治33年その原型が完成すると、竹太郎はパリの万博視察を兼ねて渡欧、西洋彫刻の基本を学ぶ傍らアール・ヌーヴォーなど最新の潮流を積極的に学んだ。翌34年に帰国すると、江戸時代からの仏師という家で培った基礎に西洋の技法を融合させる表現方法を模索し、また、帝国大学の美学取調委嘱となって、大塚保治の助手をつとめた。その間に保治や松木亦太郎の講義を聴講し、概略をノートに認めた。生前に一切の著作を残さなかった保治の講義に関する貴重な資料となっている。金之助(漱石)の小説に挿絵を描いた中村不折によれば、竹太郎は「同業の人よりも別途の人々とつきあっていた」とあり、竹太郎の各方面における造詣の深さ、関心の広さをうかがわせる。
保治の講義でスライドの上映等を担当していた竹太郎は、保治の美学に対する概念と情熱をもっとも身近にかつ深淵に至るまで吸収することができたのではないだろうか。大塚家とも親しくなり、楠緒子の最初の単行本『晴小袖』の装丁を手がけた。これは、竹太郎がベルリンで学んだアール・ヌーヴォー様式の影響が濃く見られ、楠緒子からは「新海ぬしの意匠を凝らさせたまひし表のよそほひ」だと絶讃された。また楠緒子の死後、保治から蔵書印の制作を依頼されたほどで、竹太郎の造形技術の高さだけではなく、相手の要求を巧みに汲み取る懐の柔軟さが、楠緒子や保治から全幅の信頼を得たのであろう。
竹太郎が金之助の作品に関与した形跡は見られないが、死の直後、森田草平の発案により金之助のデス・マスクを取ることになった際、大塚保治は新海竹太郎を紹介し、大正5年12月10日の午前1時過ぎに、原型が出来上がった。亡くなったばかりの金之助の顔にワセリンのようなものを塗り、溶いた石膏を塗り重ねて行く様は、久米正雄の『臨終記』につぶさに記されている。
竹太郎は同時期の彫刻家の中にあって、群を抜いて知名度が高いという程ではない。しかし、彼が集めた書籍は質量ともに群を抜いており、また後進には制作上の技術のみならずそのあるべき姿勢まで指導するなど、果たした役割は多大であった。竹太郎の手帳、ノート、書籍、写真、ガラス乾板など多岐にわたる遺産はまだ十分に研究されているとは言えず、こうしたものへのアプローチを通じて、彼の業績への評価は今後もっと高まると思われる。(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2021年1月10日号より〉