約20年ぶりに新しい貨幣(日本銀行券)が7月3日に発行されました。すべての新貨幣の1号券「AA000001AA」は日本銀行金融研究所貨幣博物館(中央区)に展示されています。1万円札には日本の近代産業に寄与した渋沢栄一、5千円札には日本初の女子留学生であり女子高等教育の礎を築いた津田梅子、千円札には世界で初の破傷風菌の純粋培養に成功した細菌学者の北里柴三郎の肖像画が採用されました。この内、東京生まれの津田梅子の軌跡を都内各地に訪ねました。
津田梅子は1864年12月31日、江戸牛込南御徒町(現在の新宿区南町)に住む、父の佐倉藩士・津田仙、母の津田初子のもとに2人目の女子として生まれました。後継の男子を切望していた仙が生後7日を過ぎても名付けようとせず、困った初子は枕元に置かれた盆栽の梅にちなんで「梅」と名付けたといわれます(1902年に梅子と改名)。
こうしたことから2号券「AA000002AA」は生誕地である新宿区に贈られ、区役所第一分庁舎1階に展示中(7月31日まで)で、8月5日~9月1日までは新宿区歴史博物館(四谷栄町12‐16)で展示されます。
父・仙は佐倉藩江戸屋敷で蘭学、横浜で英語を学び江戸幕府の外国奉行所で通弁(通訳)を務め、幕府使節団の随行として渡米もしましたが明治維新で職を辞して一家は向島に転居。梅子は1870(明治3)年春より家塾に通い読書・手習を始め、浅草で日本舞踊の稽古に通いました。
翌年、父の勧めにより日本初の官費女子留学生に応募し5人の内に選ばれ、7歳の冬に岩倉使節団らとともに渡米しました。米国家庭に預けられ11年に渡り語学などの他、ピアノを学ぶうちにキリスト教の洗礼・堅信を受け、聖公会(英国国教会系)会員となります。
1882(明治15)年に帰国した後、日本語を忘れてしまった梅子は、桃夭女塾や、華族女学校(学習院女子大学)で英語を教えました。この時、同女学校があった場所(千代田区永田町2‐18‐2参院議長公邸東門)には、「華族女学校遺蹟碑」が残されています。
再度、梅子は1889(明治22)年に渡米し、プリンマー大学で生物学を学びます。同大学選科を終了し、1892(明治25)年に帰国。留学中には自分の後に続く日本女性たちのための奨学金制度「日本婦人米国奨学金」を設立すべく、研究の合間に講演に奔走し、フィラデルフィア近郊の女性たちの協力を受け、運営委員会を立ち上げ、奨学金はほぼ目標額の8000ドルを集めています。
帰国後、梅子は華族女学校に復職し、1898(明治31)年には女子高等師範学校(現お茶の水女子大)教授を兼任。同年11月には、米国デンバーで開かれた万国婦人連合大会に日本婦人代表として出席の後に、ヘレンケラーと面会。
女学校を休職し、翌年に英国ロンドンに渡りヨーク大主教(英国国教会でカンタベリー大主教に続く上級管区主教)と面会。翌年、仏国パリを経てセント・ヒルダズ・カレッジで聴講生として講義を聞き、フローレンス・ナイチンゲールと面会して帰国しました。