本土の捨て石、残る傷跡 沖縄戦から80年の慰霊の日 平和の礎 東京から24人が刻銘〈2025年7月13日号〉

 第二次世界大戦時に日本で唯一の一般住民を多く巻き込んだ地上戦の舞台とされ、県民の4人に1人が命を失った沖縄。未だ犠牲者の正確な人数の確定には至りません。本土決戦を避けるべく、捨て石とされた島の美ら海(ちゅらうみ)は血で赤く染まりました。沖縄県は6月23日を沖縄戦での犠牲者の霊を慰め、世界中の恒久平和を願う日「沖縄慰霊の日」と定め、追悼式を実施しています。国家の名の下で命を失ったのは沖縄県民だけではなく東京都出身者の他、北は北海道から日本全国の出身者がおり、海の向こうの朝鮮半島や中国出身者も含まれています。

 6月22日、県営平和祈念公園内の平和の礎(いしじ)が終戦80年でライトアップされました。ここは沖縄戦終結の地、糸満市摩文仁(まぶに)の丘陵を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる高台にあります。

出身地ごとに戦没者の名前が刻まれている平和の礎

 平和の礎は終戦50年を記念して1995年に除幕され、「礎」はいしずえを沖縄の方言で「いしじ」と発音することに由来しています。ここには国籍、軍人、民間人を問わず沖縄戦での戦没者全員の氏名24万2567人(6月23日現在)の氏名が刻まれています。

 毎年、礎には新たな名前が追加で刻まれていますが、これは戸籍や住民票などの焼失や様々な名簿の損失によるものです。今年は東京出身者の名前が24人刻銘され、総勢3595人になりました。沖縄県民以外での刻銘者7万8303人の内、一番多く刻銘されているのは北海道出身者で1万808人に上っています。県内外から訪れる遺族も少なくはなく、花が供えられていました。記者も南方で海軍人の伯父を亡くしていることから、機会をとらえて慰霊で訪れています。

鉄の暴風雨の中 生き残った辛さ

 今年の沖縄戦没者慰霊追悼式で豊見城(とみぐすく)市の小学6年生、城間一歩輝さんが「平和の詩」で「おばあちゃんが年に一度、泣きながら歌う『激しい艦砲射撃でケガをして生き残った人』のことを『艦砲の食べ残し』ということを知って悲しくなった」と朗読した場面がテレビでも中継されました。

追悼式会場を背に「平和80」の文字がライトアップされた

 この「艦砲の喰え残さ(かんぽうのくぇーぬくさー)(ことば)」という歌を、記者に教えてくれた80代の女性は、「私は平和の礎にはこの日には行きません。人が多くない時期に一人で行って、叔父さんに『来ましたよ』と、そっと語り掛けるんです」と語っていました。

ことば 艦砲の喰え残さ(かんぽうのくぇーぬくさー)とは 「艦砲射撃の喰い残し」の意味で沖縄の民謡。激しい艦砲射撃の中、ケガをしながらも生き残った人が戦後、苦労する中で死んだほうが良かったと思う反面、前向きに生きていく気持ちを表した歌。

 沖縄に降り注いだ砲弾数は約20万トンといわれ、雨のように降り注ぐ「鉄の暴風雨」との証言が残されています。平和記念公園内の資料館には艦砲射撃の流形を模した鉄パイプのオブジェが展示されています。くぐろうと思ってもくぐれる隙間もないものでした。80年が経過した今も沖縄では不発弾が月に1度は見つかり除去が行われており、不幸な事故も後を絶ちません。

 平和の礎の内にある広場の中央には平和の火が揺らめいていました。この火は沖縄戦最初の米軍の上陸地の座間味村阿嘉島(ざまみそんあかしま)で採取した火、被爆地である広島の「平和の灯」、長崎市の「誓いの火」から分けられた火を合わせて1991年から灯し続けられた火で、1995年の慰霊の日にここに移して灯されているといいます。

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