戦争と差別、繰り返さない ハンセン病資料館 戦後80年でギャラリー展〈2025年7月27日号〉

 今年は戦後80年。悲惨な戦争体験を語れる方々が年々少なくなる中、国立ハンセン病資料館(東村山市)では7月19日から8月31日までギャラリー展「戦後80年―戦争とハンセン病」を開催中です。同館で戦争をテーマとした初の企画展はしょうけい館(戦傷病者史料館=千代田区)との共催で、戦争中のハンセン病療養所の様子や、従軍中に発症し、療養所への入所を余儀なくされた回復者の軌跡もたどっています。戦時下の療養所、日本植民地下の療養所、沖縄戦の様子などの展示を同館の吉國元・学芸員の案内で訪ねました。

療養所に残された軍支給と見られる義足

 ギャラリー展を担当した吉國学芸員は「戦争の影響がハンセン病問題にも見られる。影響は終戦で終わるのではなく、戦後まで続く。二度と病気や障害を理由にした差別を繰り返さない社会の実現を願って企画した」と語ります。展示は第1章戦時下のハンセン病療養所、第2章沖縄戦、第3章軍人癩らいに分けられており、貴重な資料が展示中です。

 日本は日清戦争(1894~1895年)・日露戦争(1904~1905年)の勝利を背景に、1907年に療養の方法がなく物乞いをしながら屋外生活をしているハンセン病患者を“国辱”として法制化にて強制収容を始め、1931年には全ての患者に対象を広げました。その後、満州事変(1931年)から太平洋戦争の敗戦(1945年)に至るまでの15年に渡る戦争に突入しました。その中でハンセン病患者が長きに渡り受けてきた差別が展示から浮かび上がります。

戦争協力の歴史も

 第1章の戦時下のハンセン病療養所で印象的だったのはカラフルな模様入りの包帯でした。物資に困窮する中、症状が悪化する皮膚や傷を保護するために自分たちの着物を裂いて作ったものです。当時の療養所は自給自足が当たり前の中で防空壕を掘るのも、看護も患者同士で強いられていました。

自分たちの着物を裂いて作った包帯は洗って繰り返し使われた

 「空襲の時は付き添いが次々に病人を背負って防空壕に運んだ。歩くこともできない病人たちは暑くても寒くても、雨が降る時も、夜中でも、そこにずっと座らされ、じっと終わるのを待つのであったが、(略)いつの間にか息がなくなっていた者も多かった」との当時を記録した文章が残されています。

 療養所での死者の多くは栄養失調であり、直接の空襲による死者は沖縄以外では深刻ではなかったといいますが、医療物資の不足などにより戦後も亡くなる人が多くありました。カラフルな包帯は洗って巻き直して、何度も使われた物でした。

 吉國学芸員が当時の入所者が残した「もっと直接、国の役に立ちたいんだ。俺の体では健康者の中に入っていけない。しかし普通の労働には耐えられる自信はある」という詩を紹介。差別を受けながら、「療養所も戦争協力を強いられていた」「思想統制を受けていた」ことが読み取れます。

 また日本が植民地とした朝鮮半島、台湾などの療養所についても、戦後の補償問題を含めて記されています。

沖縄戦の記録

 第2章は沖縄戦の記録です。

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