街角の小さな旅(10)玉堂美術館と奥多摩の渓谷 線と色合いの調和で描く日本の風景と人々〈2021年6月6日号〉
- 2021/6/6
- 文化・芸術・暮らし

玉堂美術館はJR青梅線御嶽駅を降りて、多摩川にかかる御岳橋を渡った対岸の木立のなかにあります。
近代日本画を代表する川合玉堂は、第2次世界大戦の末期、東京での空襲を避けてこの地に居を移しました。歌人でもあった玉堂が「大空にせまれる尾根も畠らし 蕎麥畠らし有り明けの月」と詠んだように、当時の御岳周辺は、急峻な山々と笠取山を源流とする多摩川が削りとった深い渓谷、筏が組まれた激流に人々が生活を営む山里でした。
玉堂は江戸期からつづく円山四条派を京都で、狩野派を東京で学び、「紅白梅」や「背戸の畠」などの屏風絵を残すとともに、これら大名家や寺社、富豪などの庇護の下に発展した掛け軸や襖絵、屏風絵などによる装飾的絵画を脱し、日本の四季や風景のなかにある農夫や漁師、茶摘み女など働く人々、鵜や猿などの動物、草花を優しいまなざしで表現した画家でした。また、晩年、この地に定住してからは、「春光」や「遠雷麦秋」「茶摘み」など奥多摩の渓谷とそこに生きる人々、風物を題材に日本画でなければ描くことがあたわない世界を描きつづけました。
玉堂は「元来線というものはウソのもので、実物に線の有りようはない。このウソのものを使ってよく実物を現すのが、すなわち日本画の妙です」と語り、「自然の実景に囚われているうちは駄目」とも語っています。また、洋画との違いについて、「線と色合いの調和(略)。日本画の妙は、全くこの二つの調和の上にある」と述べています。
水を描くときは、自ら水になって描けば水となり、これは藪と思って点を打てばそれは竹藪と見え、草原と思って描けば、草原に見える
川合玉堂

漁の網を干している棒杭に翼を休めている鵜の情景(「干網」)に玉堂の心の風景がありました。
日本の山河がなくなったような気がし、日本の風景がなくなったような気がする
玉堂がその生涯を終えたとき、親交のあった鏑木清方が語った言葉です。
玉堂没後、半年ほどで小河内ダムが竣工。奥多摩の渓谷から岩肌を縫う激流の景色が失われ、いまは、穏やかな流れに人々が集うところとなっています。
玉堂は終戦の直前の8月10日、「今や此九年間の戦争は勿論、それ以前にも遡って、日本國民が一大反省をせねばならぬ秋に直面しているのではあるまいか」という言葉を残しています。
美術館はコンパクトな2つの展示室と玉堂が作画をしていた画室(復元)、枯山水の石庭があり、静かな時間が流れています。5月は美術館開館60周年にあたり、6月8日からは記念展第2弾「玉堂の描く日本の四季」展が開催されます。
渓谷を歩く

玉堂が描いた奥多摩の渓谷を訪ねてみましょう。
上流から数馬峡、鳩ノ巣渓谷、御嶽渓谷と渓谷がつづき遊歩道が整備されています。数馬峡では吊橋のもえぎ橋から渓谷を眺め、数馬峡橋の対岸には玉堂の歌碑があります。エメラルド色の湖水は白丸ダム。白丸魚道があり、階段を降りて魚道を見ることができます。
鳩ノ巣渓谷、御嶽渓谷はキャンプや川遊びの人気スポットです。
奥多摩の渓谷は四季折々に姿を変えます。白丸、鳩ノ巣、御嶽などの各駅で下車、ピンポイントで渓谷を楽しむこともできます。

湖底に眠る湯治の里
奥多摩湖が竣工したとき、かつて「早州湯が原の湯(現湯河原温泉・筆者注)に増さること十倍」といわれ、武州、甲州一円の湯治客でにぎわった鶴の湯温泉が湖底に姿を消しました。
一度は消滅した鶴の湯でしたが、湖底からの引き湯(湖畔まで汲み上げ搬送)を使って20年前に復活。湖畔、氷川(奥多摩駅周辺)、鳩ノ巣にある宿で楽しめます。
末延渥史
東京民報2021年6月6日号より












