味覚でひも解く江戸の歴史 知っていますか江戸東京野菜 郷土を伝える生きた教材に〈9月12日号より〉

 ビジネス街や住宅地が広がる東京23区は江戸期、農作物の供給も豊かで独自の野菜文化がありました。この伝統野菜ともいえる品種は今、私たちが口にしている野菜と比較すると耐病性などが低く収穫量が安定しなかったり、サイズなどがそろわず流通になじまないために、改良した交配種にとって代わられたといいます。一方、JA東京中央会(JA東京)は野菜だけで50品目を「江戸東京野菜」として登録。地域では復活と伝統を継承する取り組みを続けています。

練馬大根の碑

 現在の23区を中心とした江戸はその昔、寒村で徳川家康が幕府を開くのにあたり、築城や都市づくりのための職人が家族とともに各地から移住しました。それに伴い商人なども集まり、急激な人口増で野菜不足が起こったといわれています。三代将軍徳川家光の時には参勤交代が始まり、「大名の家臣らが故郷の味を求めて江戸の下屋敷に地元の野菜の種を持ち込んで栽培し始め、江戸の気候・風土に合うものが残り、産地より美味しくなった」と江戸東京・伝統野菜研究会の大竹道茂さんは語ります。

練馬大根の碑の説明版

 江戸に来た人はその野菜を食し「美味いものを食べた」と、種を持って故郷に帰りました。豊島区巣鴨の旧中山道沿いが〝種屋街道〟と言われるゆえんです。大竹さんは「野菜の種が、全国から江戸に集まり、江戸から全国に広がる。東京は一大産地として農業のルーツだった。その主要産地に説明板があります」と話します。

失われた町名残す寺島ナス

 今でもよく耳にする「練馬大根」も練馬区春日町の愛染院そばに碑が残されています。練馬大根は長さが1㍍もあり、私たちがよく口にする葉の付け根が青い青首ではなく、葉以外は白く主にたくあん漬けにして食されていました。練馬は富士山の火山灰による関東ローム層の肥よくな赤土のために大きく育ったといわれています。

 日露戦争時、保存食として大量生産されましたが、戦後、食文化の変化や連作による不作などから生産量は激減し、市場から姿を消していました。しかし、今は地元のJAや農家などの尽力で練馬大根引っこ抜き大会などのイベントが行われる他、学校給食で練馬大根を使った〝練馬スパゲティ〟などがだされ、郷土学習に一役を買っています。

 郷土を学び伝える生きた教材として学校で江戸東京野菜が栽培されている所もあります。

寺島ナスの説明板が設置されている白髭神社=墨田区

 墨田区東向島は1889(明治22)年の町村制施行以来、「寺島(てらじま)」という地名でした。墨田川沿いの肥よくな土地柄、ナスの栽培が盛んで蔓細千成(つるぼそせんなり)ナスともいわれる「寺島ナス」の中心産地だったものの、1965(昭和40)年の町名変更により寺島の名を失いました。

 寺島ナスは通常のナスと比較すると皮が固く肉質がしっかりしており、加熱するととろみが出る上に小ぶりなためにお椀に収まりやすく、他の品種と比べて収穫期を早く迎えます。1828(文政11)年発行の「新編武蔵風土記稿」にも「形は小なれどもわせなすと呼び賞美す」と記されています。地域の特産品として千住や神田にも出荷されていたといいます。向島芸者や吉原の花魁が粋に口にしていたかもしれません。

寺島ナスの説明板

 しかし、大正時代に起きた関東大震災後の急速な宅地化による畑の減少で生産が途絶えてしまいました。

 寺島ナスの説明板は1997(平成9)年、農協法施行50周年の記念事業でJA東京が白髭神社(墨田区)に建てました。それを見た地域の人らは「寺島」の名を懐かしみ、まちおこしの機運が高まる中、2009(平成21)年、墨田区立第一寺島小学校の開校130周年の記念事業の一環として全校生徒で栽培を行うことになり復活。9月に収穫期を迎える寺島ナスは、寺島の名が残る学校の校庭で栽培が続いています。

第一寺島小学校の校庭で実をつける寺島ナス

食文化支えた野菜本来の味

 江戸東京野菜の復活にはいろいろなドラマがあります。早稲田みょうがは、流通している茶色く細長いものとは違いピンク色をしています。大竹さんが古い文献に「早稲田にみょうが畑と田んぼがあった」と見つけて調べると、早稲田大学の野球場はみょうが畑を整地して作ったものでした。学生と一緒に捜索し、早稲田みょうがが30数カ所に自生していることを発見。農家に栽培を委託し、新宿区内の学校給食で卵とじなどに調理されて郷土の味をつないでいます。

 荒川区では主に漬物とされていた三河島菜も消えた江戸東京野菜でした。東京に種はなかったものの、仙台の芭蕉菜が東京の三河島菜の種で栽培されていたという記録を見つけて復活を遂げました。

 江戸東京野菜は、今流通する野菜と比較すると色や形が不ぞろいなだけでなく、味も青臭かったりと野菜本来の味がしっかりしていました。そのための調理法も発展し、生きた文化財ともいわれるように江戸の食文化を支えてきました。

 1981(昭和56)年の農地の宅地並み課税に伴い、農業の効率化が国策で進められる中、交配種の流通が促進しました。季節に関係なく種類が豊富で形がきれいにそろい、食べやすくなった反面、味覚で季節を感じる文化を失っているのかもしれません。

 大竹さんは「江戸東京野菜のような伝統野菜は旬でしか味わえないし、一つひとつ物語がある」と目を細めます。

(東京民報2021年9月12日号より)

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