おぞましい戦禍の悲しみ、平和の尊さを決して忘れてはいけないと、戦争の実態を絵画や写真展、歌などで訴える「東京大空襲を忘れない〝平和の集い〟」(実行委員会代表=濱田嘉一さん)が17~21日、江東区文化センターで開かれました。同集いは2019年から始まり、今年で3回目。東京大空襲の経験を《死と生の記憶》として墨痕ぼっこん画などの絵と詩で表現した『赤い涙』の著者・村岡信明氏(89)の絵画を、未発表作品を含む21点展示。18日には東京大空襲の本質に迫る同氏の講演会を行いました。
洗脳教育で軍国少年に
1945年3月10日未明、現在の江東区、墨田区、台東区を中心におびただしい数の米軍B29爆撃機が約1700トンもの焼夷弾を投下。一帯は焦土と化し、わずか2時間ほどで10万人以上の命を無残に奪いました。
講演のテーマは「日本の断層 東京大空襲」。小学校4年生のときに父親を過労死で失った村岡氏は、6人きょうだいの母子家庭で育ちました。東京大空襲に巻き込まれたのは13歳の春。中学生になり、夢と希望に満ちあふれていた頃でした。
中学に入学し、最初の授業は音楽。「先生がグランドピアノでベートーベンの『月光』を演奏した。しかし音楽の授業はそれ1回限り。学校教育に合わないからと、先生は追放されました」
町には軍歌があふれ、学校で毎日歌わされるのは「君が代」と第二国歌といわれた「海行かば」。赤紙(召集令状)一枚で戦争に駆り出され、遺骨になって帰還する「無言の凱旋」を、多くの人々がたたえます。
「結局、中学校の授業は1カ月のみ。学徒勤労動員で軍需工場に派遣されました」と、芸術が真っ先に排除され、自らも軍国少年に育て上げられていく学校教育の実態を語りました。
3月10日、午前0時過ぎ。下町は短時間で火の海になりました。村岡氏は自宅の前にある清澄庭園の大きな木の下に、いちはやく家族とともに避難。一人で庭園を出て町の様子を見に行くと、目に映ったのは焼夷弾で砕け散る人間の頭、炎の中で狂い、燃えながら死んでいく人、黄燐焼夷弾が妊婦を背後から貫き、母親と胎児が殺される瞬間、数千人の避難民があてもなく逃げ惑う死の行進、血の混じった絶叫が響き渡る、現実とは思えない現実でした。このときの様子は著作『赤い涙』の中で、より詳しく鮮明に、絵と詩を交えて描かれています。「わたしも炎に包まれました。死ぬか生きるかの判断をする余裕なんてない。しかし、瞬間的に風向きが変わり、奇跡的に助かりました」