【 #Web東京民報 連載】⑧金之助の縁談に関与した正岡常規(子規)〔上〕 池内俊雄

 慶応3年(1867年)に松山藩士の家に生まれた常規(子規)は明治16年(1883年)に松山中学を中退、親類を頼って上京した。翌明治17年に旧松山藩が運営する常磐会の奨学生となり、9月に東京大学の予備門に入る。明治22年に寄席がきっかけで金之助(漱石)と近づき、俳句や文学論を交わす間に親交を深めた。常規が『七艸(ななくさ)集』を贈ると、金之助はそれに対する評、続いて房州を旅した際の漢詩紀行文『木屑録』を寄贈し、双方が非凡な才能を認め合うに至った。

 明治23年常規は哲学科に進み、明治24年の10月には大宮公園内の「万松樓」に滞在して定期試験に備えたが、「試験の準備は少しも出来なかったが頭の保養には非常に効験があった。しかしこの時の試験もごまかしで済んだ」と『墨汁一滴』に残している。万松樓へは金之助も呼び出され、「大将奥座敷に陣取って威張っている。…僕は其(その)形勢を見て、正岡は金がある男と思っていた。処が実際はそうではなく身代を皆食いつぶしていたのだった」、「正岡という男は一向学校へ出なかった男だ。其れからノートを借りて写すやうな手数をする男でもなかった」と回顧している(『ホトトギス』の「正岡子規」より)。

 翌明治25年、金之助は「鳴くならば満月になけほとゝぎす」の句を添えて卒業するのを勧めたが、常規はついに退学。金之助の仲介で坪内逍遥に会い、『早稲田文学』に俳句欄を設けて自らが担当。陸(くが)羯南(かつなん)が主筆であった『日本』にも俳句欄が新設されるなど、俳句の創作と革新にまい進してゆく。明治27年には、仙台第二高等中学を退学した高浜清(虚子)と河東秉五郎(碧梧桐)を翼下に招き、これが後の「根岸短歌会」の発足につながる。

子規庵(台東区根岸) 正岡常規が作句の拠点とした根岸の「子規庵」は、旧前田侯の下屋敷長屋にあった長屋といわれている。明治27年常規はここに移り、松山から母と妹を呼び寄せた。現在の建物は、老朽化や災禍のため解体や復元などを経て、昭和25年に再建されたものである。

 金之助が松山中学に赴任した明治28年、常規は清国から帰国の途中で喀血。神戸病院で治療を受けた後松山に戻り、金之助の下宿(=愚陀仏庵)に食客として同居。この間の句会・吟行・指導が金之助の創作活動に大きな影響を与えることとなった。一方で、金之助には後に妻となる中根鏡子との縁談話が浮上。下谷区上根岸に戻った常規に手紙を宛てて、今更家庭的な幸福は望みもしないと虚勢を張りながら、結婚を巡って生家の兄らと意見の隔たりが埋まらず、至急を要する場合には、常規を煩わせることになるのを予め断っている。

 常規が金之助の代弁者の役目を担う手筈になっていたのは、金之助が周囲の反対を押し切って松山に落ち延びた経緯、つまり明治27年の一連の奇行と関係があって、その前後関係を常規は金之助から聞かされていたからであろう。明治26年に常規が金之助に送った次の俳句が、その鍵を握っている。

 待つ戀(こい)に又秋の蚊にさされけり

(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)

〈東京民報 2020年5月17日号より〉

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