【 #Web東京民報 連載】⑭終生心に痛手を負った、大塚保治〔下〕 池内俊雄
- 2022/8/7
- WEB版連載

帝大の寮を出て小石川の法蔵院に蟄居(ちっきょ)した金之助(漱石)にとって、明治28年(1985年)は人生の一大転機の年であった。2月に小屋保治は大塚楠緒子と結納を交わし、3月4日入籍の後7日に大塚の姓となった。16日に結婚披露宴が星岡茶寮で開かれ、金之助は40人を超える帝大の関係者・卒業者、学生らと共に、潔く出席した。当日の服装について「懇意な友人の新婚披露宴に招かれて星が岡の茶寮に行った時も、着るものがないので、袴羽織共凡て兄のを借りて間に合わせた事もあった(『道草 三十三』)」と書き、その羽織袴を「ただ自分の着ている羽織を淋しそうに眺めた。その羽織は古い絽の紋付に違いなかったが、悪く云えば申し訳の為に破けずにいる位見すぼらしい程度のものであった」と説明している。寂しそうに見えたのは羽織袴だけではなく、自分の姿ですら他人の目にはそう映ったに違いない。

しかし、金之助が姿を見せなければ、余計な憶測を生むことになるばかりか、保治と交わした何らかの「取り引き」を一方的に破ることになるので、「世間の手前とか義理とかで、いくら云いたくても云えないことが沢山ある(『道草 十二』)」のを堪えながら、公開処刑にも似た覚悟で披露宴に臨んだのであろう。しかし金之助が「精神的に敗残した」はずでも、生涯負い目を拭えなかったのは逆に保治のほうであった。
肋膜炎から35年の生涯を閉じた楠緒子を弔いに、大塚家に上がった長谷川時雨は、金之助が朝日新聞に連載した『硝子戸の中』の楠緒子にまつわる部分を読んで、「漸く忘れようとすることが出来かけたのに、あれを見てからまた一層思い出す」と、保治の悲しみに打ちひしがれた姿を紹介しているが(『婦人画報(一九一五年十月)』)、「有る程の菊投げ入れよ棺の中」の句によって、過去の思い出とともに楠緒子を心の隅から葬り去ることができた金之助に対し、保治はその痛手から容易に立ち直れなかったのであろう。
金之助は小説『行人』の中で主人公の口を借りて、「道徳に加勢するものは一時の勝利者に違いないが、永遠の敗北者だ。自然に従うものは、一時の敗北者だけれども永久の勝利だ(『行人・帰ってから・二十八』)」と書き、義侠心、あるいは何らの地位と相殺に、楠緒子をめぐる結婚レースから下りた自分を「永遠の敗北者」と位置づけていた。しかし、楠緒子と結婚に至った保治の胸の内はなかなか表に出ることがなく、寧ろ金之助よりもその苦悩は深く、楠緒子の死後も癒えることはなかったように思われる。〈IN MEMORIAM OF OTUKA KUSUO〉という蔵書印に、その闇の大きさがまざまざと刻み込まれている。
(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年8月9,16日号より〉