【 #Web東京民報 連載】⑮ 里見美子のモデル、平塚明(らいてう)
- 2022/8/21
- WEB版連載
金之助(漱石)の教え子であった森田草平は平塚明と塩原で心中未遂を起した。金之助には明と直接に面会した形跡はないが、事後処理のため平塚家との間に立って奔走した。
平塚明は和歌山藩士の家の出で、父定二郎は会計検査院長を勤めたほどの人物であった。東京女子師範を経て日本女子大学を出たが、厳格な家柄や良妻賢母教育への反動から文学の道に活路を見いだそうとした。一方の草平は岐阜の裕福な庄屋に産まれたものの、ハンセン病の疑いのある父と学歴の低い母という出自が響いたのか、人の言動に敏感に左右される質であった。四高の学生時に従姉妹と同棲して退学処分となったのも、一人ではいられない精神の弱さから来たものと思われる。明とは成美女子英学校に出来た「閨秀文学会」で知り合い(明治41年〈1908年〉1月)、その年の3月21日に明と草平は田端から大宮を経て塩原に向かった。しかし、奥塩原の尾花峠で死に切れない二人は宇都宮署の警官によって保護され、閨秀文学界の生田長江と明の母に引き渡された。草平は金之助が引き取った。心理学では、幼少期の愛情が不十分だと、女子は男性に対しては依存気味で、男子は女性に対しては無理な要求をするようになると指摘されているが、両者が一気に接近した背景には、そうした家庭環境から生じたコンプレックスが多少なりとも影響したのかもしれない。
金之助は平塚家に対して長江を通じて詫びを入れ、その上で二人を結婚させると伝えたが、この申し入れは明の両親は勿論、明本人にも承服できぬ内容であった。更に、この度の経緯を草平に小説に書かせることに対して承諾を求めたものの、こちらも勿論平行線であった。
後に明が『青踏』を発刊して女性解放運動にまい進するのも、女性の気持ちをないがしろにした金之助の善後策と、自分の本心とは全く異なる解釈で心中の顛末(てんまつ)を一方的に新聞掲載した草平への強い反感が横たわっている。
そんな明を金之助は「ああいふのをみづから識らざる偽善者(アンコンシャス・ヒポクリット)といふのだ」と定義付けて、草平に「どうだ、君が書かなければ、僕がさういふ女を書いてみせやうか」と言って『三四郎』の女主人公「美子」を描いたという(森田草平『「三四郎」の女主人公』より)。その後草平は自叙伝の後編を朝日新聞に掲載、これが引き金となって金之助の入社に尽力した池辺三山の辞任にまで発展し、金之助が責任編集となっていた文芸欄も取り止めになった。草平は弟子の中で最も金之助に迷惑をかけた存在だと自覚するのは、こうした経緯による。
(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年8月30日号より〉