【 #Web東京民報 連載】⑯ 人生即俳句観に呻吟した、松根豊治郎(東洋城)

 松根豊次郎は祖父が松山藩の城代家老、母は宇和島藩主伊達宗城の娘という、由緒格式ある家で生まれ育った。江戸の若殿が明治に生まれ変わったような風采で、また中学の頃は腕白であったらしい。豊次郎は松山に赴任してきた金之助(漱石)に英語を習ったことが縁で、正岡子規を紹介され「ホトトギス」に加わった。尋常中学を出た後は、一高・東京帝大に進学、京都帝大に転じて法律を修め、明治39年(1906年)に宮内省に奉職した。金之助を「什(そも)先生」と慕って、俳句の教えをよく受けた。金之助は豊治郎を以下のように見ていた。

 「東洋城(豊次郎の俳号)は俳句本意の男である。あらゆる文学を十七文字にしたがるばかりではない、人生即俳句観を抱いて、道途に呻吟している。 ・・・ 東洋城と余は俳句以外に十五年来の関係がある。向うでは今日でも余を先生々々という。余も彼の髭と金縁眼鏡を無視して、昔の腕白小僧として彼を待遇している」(明治四十二年・松根東洋城撰『新春夏秋冬 夏之部』の序文)。

松根豊治郎の家があった付近(中央区築地) 宮内省奉職を機に叔母初子の婚家である麻布の柳原家に住む。赤坂表町、九段中坂を経て、明治44年3月に築地2―39、大正2年に明石町61に住む。出戻っていた柳原華子との結婚を許されなかったのが、柳原家を出たきっかけであり、独身を貫いた理由の一つと思われる。築地2─39の家を、夏目金之助は「間数三と云う、狭いものならん」と書いている。今はそうした家があったという面影すらない。

 恐らくその出自や風貌から、豊次郎には女性にからむ問題がよく起きたのであろう。それは明治40年8月26日付けの「以来心中ヲ論ゼズ。閑アラバヲンナヌキニシテ尻ヲ端折ッテ来レ」と金之助が送ったように、豊治郎は俳句の指導より、女性問題の相談のために金之助の許を訪れていたようである。書簡に「夏目道易禅者」と巫山戯(ふざけ)て署名しているところから、自分を豊治郎の将来を見通す占師に見立て、相愛の仲でも女が男を捨てたとしても、どちらでも結果は「流レケリ」だと諭す。少し前の21日付けでは、次のようであった。

心中するも三十棒

朝貌や惚れた女も二三日

心中せざるも三十棒

垣間みる芙蓉に露の傾きぬ    

道へ道へすみやかに道へ

秋風や走狗を屠る市の中 

 金之助は、「道得也三十棒 道不得也三十棒」を捩って、「きちんと答えられても、答えられなくても、容赦なく肩に痛棒が飛んで来た」という徳山和尚の逸話を豊治郎に想起させ、悩むことの無意味さを伝えたのである。最後の句は、「狡兎走狗(価値のある間は大事にされ、なくなれば簡単に捨てられる)」を踏まえている。8月20日の書簡では、「天竺に向って去れ」と書いていて、これは、明治27年法蔵院に蟄居(ちっきょ)していた時、占師に「西へ行く相がある」といわれ、実際に松山・熊本に落ち延びた自分の姿を思い起こしてのことと思われる。

(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)

〈東京民報 2020年9月13日号より〉

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