【 #Web東京民報 連載】⑱『三四郎』に登場するイプセンの女〔下〕
- 2022/10/2
- WEB版連載
『三四郎』の中で、広田先生が与次郎と馬鹿貝の付け焼きを食べながら、美子の評を下している。
「あの女は落ちついていて、乱暴だ」
「ええ、乱暴です。イプセンの女のようなところがある」
「イプセンの女は露骨だが、あの女は心が乱暴だ。…」
「里見(美子)のは乱暴の内訌(*)ですか」
(*)心の中が乱暴同士で揉めているように、荒々しい様
大塚楠緒子は夫保治が留学中に「世帯の味をしりそめた」一方、「すこし生気をそへむと思ふ明治の女の一生は よそめには察しえられぬ奮発を持ちならでは送られじ」と鬱憤がたまり、「さる同情をよする男も女もとんとすくなきこそくち惜し」いと、もどかしさを吐露している。その打開に「わたくしの理想としての女をかき立てなば さぞ偏したる文学的評価の我儘ものになりて 男にはきらはれ候事」になると、理解が得られないであろうことを懸念している。
様々な葛藤の末、大学の助教授や教授の婦人らが楠緒子の家で勉強会を開き、元良勇次郎夫人等と「すみれ会」を発足させた。保治は明治33年に帰国し、明治37年の9月頃「すみれ会」でイプセンの『人形の家』に就いて話をした。保治はあらましを述べ「私は今日は只此問題を提起する丈に止めて置きます」と論評を避けた。楠緒子は9月19日の佐々木信綱宛ての手紙で「ノラ(主人公の名)の評はいろいろと出て申をし候 翻訳にては あまりよくわかり不申(もうさず)イプセンの劇はむつかしきよしなれば」と、妻への愛情より社会的な地位や外聞を優先させた夫に愛想を尽かして家を出たノラに対する評価が分かれたこと、また筋が複雑で翻訳では完全に理解しにくかった旨を伝えている。
陋習因縁(ろうしゅういんねん)にとらわれない「新しい女」を賞賛する姿勢は、明治では尚更のこと歓迎されなかったのであろう。しかし楠緒子は子どもの相次ぐ死や自らの病とも戦いながら、作品を世に送り出してゆく。その背後に金之助(漱石)の技術指導や口添えがあったのだから、保治としては内心平穏ではいられなかったであろう。こうして「道学先生」と妻から半ば揶揄された保治が女性との関係(一説には教え子が相手)に走っていく。保治・楠緒子の剣呑な関係を察知した金之助は「何だか西片町辺はエラ過ぎる様に相成候」と戸川明三に手紙に書き、?(とばし)りを怖れて早稲田南町へ急いで移った。「けさ死ぬか暮に死ぬかといふ妻に小鳥を見する枕邊の夫(病室の隣室にありける人を)」という楠緒子の歌に、保治との間に生じた溝の深さが垣間みられる。
(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年10月11日号より〉