「荒ぶる川」から命を守る 荒川放水路 通水から100周年〈2024年10月27日号〉
- 2024/10/29
- 文化・芸術・暮らし
埼玉県から東京都の東部を流れる荒川の下流は「荒川放水路」と呼ばれ、流域住民の命を守るために人の手によって建設された人工河川。1924(大正13)年10月12日にとり行われた「荒川放水路」の通水式から100年を迎える同月12日、新旧の岩淵水門(北区志茂5)周辺や「荒川知水資料館 amoa」を舞台に記念イベントが開かれ、約8000人が訪れました。東京のまちが長きにわたり水害とたたかってきた歴史、「人類愛」と「非戦」の思想を胸に刻み、荒川放水路の開削に貢献した日本屈指の知識と技術を持つ内務省(現国土交通省)土木局を代表する技師(技術官僚)、青山士の功績を振り返ります。

甲州(山梨県)、武州(埼玉県)、信州(長野県)をまたぐ甲武信ヶ岳を源流に、埼玉県から東京都の東部を蛇行して貫き、東京湾に注ぐ全長約173キロの荒川。「荒ぶる川」という名の通り、かつて氾濫を繰り返し、流域住民の生活を脅かし続けていました。
1910(明治43)年に関東地方を襲った台風により、荒川下流部(現在の隅田川)は大洪水に見舞われ、被災者150万人、浸水家屋27万戸、被害総額1億2000万円余(現在の数兆円)もの壊滅的な被害が発生。この大洪水を機に、明治政府は翌1911年から抜本的な治水対策として、北区、足立区、葛飾区、墨田区、江東区、江戸川区を流れる延長約22キロ、川幅約500メートルの人工河川「荒川放水路」の開削に着手しました。
荒川放水路の建設に当たり、移転を余儀なくされたのは約1300世帯。工事に反対する住民の声もあり、嘆願書や陳情書を提出した記録が残っています。












