混迷を極めた戦後日本の教育に改革をもたらし、現代においても影響を与え続けている遠山啓(1909‐1979年)。代数関数論で学位を取得した数学者であり、生活単元学習に反対し、民間数学教育研究団体「数学教育協議会(数教協)」を立ち上げた教育運動の主導者。さらに、「量の理論」と「水道方式」と呼ばれる算数・数学の教育法を創出・提唱した教育者、障害児教育と出会い、序列主義や競争原理を批判した教育思想家でもあります。深刻化する教育格差、学力の低下、不登校など、子どもが自ら考え行動する「生きる力」を育むはずの公教育が崩壊しつつある今、生誕115年、没後45年を迎える遠山氏の功績を、数教協のメンバーとともに振り返りました。

写真提供:太郎次郎社エディタス
父親を早くに亡くした遠山少年は、反体制的な祖父の気質を受け継ぎました。一貫して学校嫌い。1929年に東京帝国大学(現在の東京大学)理学部数学科に入学するも、高校より程度の低い講義に幻滅し、2年で退学。35年に自由な雰囲気の東北帝国大学(現在の東北大学)理学部数学科に入学し、卒業後は海軍教授になりました。「軍服を身につけないことがせめてもの意気地だった」と記録されています。
44年に、東京工業大学の助教授に就任。翌45年の終戦が遠山氏に与えたのは、解放感と安心感でした。勤労動員から戻ってきた学生は講義に飢え、知を渇望。遠山氏は学生の希望を受け止め、荒涼とした大学で自主講義を実施。毎回200人ほどの学生を前に、数時間も無償で敢然と講義を行いました。
高校の数学教師を約55年間務めた数教協の増島高敬氏(84)は、「元帥(遠山氏の愛称)は頑固な親分という感じ。近くて遠い存在だった」と、東京工業大学の学生だった時代を回顧。増島氏は遠山氏の講義を受け、卒業研究の指導も仰ぎました。「機嫌の悪い日はあまり喋らず、機嫌の良い日は夕飯を用意し、予習をしていない先まで指導を進める。なかなか大変だった」と笑います。











