【 #Web東京民報 連載】⑲金之助の画の師匠、津田青楓(西川亀治郎)

 京都の華道の家元に生まれた津田青楓(本名西川亀治郎)は、長男ではなかったために兄の一草亭より低い扱いに甘んじ、官費でフランスへ留学するなど苦労をした。フランスにいる間はカフェで仲間と金之助(漱石)の小説を読み、『草枕』の中で茶道をさげすむ下りに共感を覚えたらしい。青楓の父は華道の家元であり茶人でもあったが、その父から長男と同様の扱いを受けなかったことに、反感を抱いていたのかもしれない。帰国すると東京に出、小宮豊隆によって金之助に引き合わされると、二人は絵を通して一気に接近した。明治44(1911)年のことである。やがて『道草』・『金剛草』・『明暗』の装丁を任されることになる。大正4年に津田青楓が京都へ戻る際、金之助の妻・鏡子は、夫を京都に誘い出すようにお願いして別れた。間もなく知らせがあり、金之助が京都に着いたのは3月20日(あるいは21日)である。青楓の兄の伝で、木屋町の「北大嘉」に落ちついた。

 21日に、西川氏の所有する茶室「去風洞」で「松清」から取り寄せた料理を食した。鯉こく、鯉のあめ煮、鯛の刺身、鯛のうま煮、海老の汁などで、異なる品を適度に頂く懐石本来の趣旨に倣わず「勝手に食ふ」たのであった。毛織物商として有名な「芝川商店」の照吉さんから祇園に利発な文学芸者「お多佳」がいると聞かされていた金之助は、宿で会ったのだが、それが20日だったのか時間も含めて曖昧である。

青楓の家の跡付近(文京区目白台) 青楓宛の金之助の書簡は全部で49通ある。最初の手紙は、朝日新聞に青楓の挿絵を斡旋する内容で、明治44年に知り合った二人が急に意気投合した様子が窺われる。最初の一通が麹町区九段の宿舎宛であり、それ以後は小石川区高田老松町宛である。清風の家があったと思われる同三十七番地は、今では小さな公園になっている。

 金之助は着いた日から腹の具合が思わしくなく、22日には「淋しいから御多佳さんに遊びに来てくれ」と電話で頼み、夕食の御肴を自ら見繕った。24日はお多佳さんらと北野へ梅見物に行く予定であったが、どちらかの勘違いで流れてしまい、漱石はヘソを曲げて明日に帰京すると言い出す始末。青楓が金之助の世話をする傍ら、お多佳さんに漱石をなだめるように頼み、何とか落着。胃痛が悪化したため4月2日に妻の鏡子も合流し、金之助の滞在は結局4月16日までの29日間に及んだ。鏡子に電報をうつべきかどうか相談をしていた時、それを聞いた金之助は「(鏡子が)またお悪いんですかとか何とかいうと、それだけでぞっとするとかやりきれない」と、青楓に止めるように言ったそうである。しかし、青楓はもしものことがあってはいけないので、責任は自分で負うと請け合って電報を鏡子に打ったのであった。

 金之助が全幅の信頼を寄せた青楓は、彼の兄で華道家の一草亭の画を金之助が「待合か料理屋の床に掛けるような画だ」と酷評したのを思い出し、「(画は)稚拙で重厚 … そして品位が高く気韻がなくてはいけない、漱石は才気があっても軽薄な画は描かなかった」と回顧している(『漱石の拙』昭和29年6月23日)。

(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)

〈東京民報 2020年10月25日号より〉

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