一夜にして10万人以上の民間人が命を奪われた東京大空襲から76年を迎えた10日、隅田公園の言問橋たもとにある犠牲者追悼碑前(台東区)で、34回目の追悼集会が開かれました。新型コロナ感染症予防のため、毎年数千人が訪れる「東京大空襲資料展」は昨年に続き今年も中止。晴れ渡った空の下、参列者約100人が犠牲者に黙とうをささげ、追悼の意を表しました。
東京大空襲は1945年3月10日の午前0時過ぎから2時間余、当時都内で人口密度が高かった現在の台東区、墨田区、江東区あたりを中心とする下町に、300機のB─29爆撃機が総計1665㌧に上る焼夷弾を投下。例年この時期は北北西の季節風が吹く頃で、当日も強い北風により密集する木造家屋が激しい炎にのまれ、東京の約4割が焦土と化しました。
言問橋には、隅田公園や隅田川に逃げ場を求める人々が殺到。荷車なども多く、身動きが取れない状態となり、言問橋周辺で7000人もの死者が出たと言われています。
主催の東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会より、川杉元延実行委員長があいさつ。1944年11月24日から終戦までの9カ月弱に、東京は100回以上の空襲被害にあったことを説明。石原慎太郎都政下の1999年より「東京都平和祈念館」の建設が凍結されたまま今日に至る状況にも深く憤り、「戦争の悲惨さを風化させず、安心して住める世界を願い、今後も活動を続ける」と決意を示しました。
小学校1年生で東京大空襲を経験した濱田嘉一さん(83歳)が、当時を証言。江東区の自宅に焼夷弾が落ち、母と祖母、いとこの5人で死を覚悟しながら清澄公園に逃げ込んだことを鮮明に語ります。「焼夷弾で人間が一瞬にして火だるまになる。近所のお寺で見た地獄絵そのものだった」「私たちは最後の語り部だろう。若い人たちに文化を通じて空襲体験を伝えなければいけない」と使命感を述べました。
日本共産党の小池晃参院議員と、立憲民主党の松尾あきひろ衆院議員も参列。小池氏はあいさつで、空襲被害者救済法案について言及しました。政府は〝国の非常事態下で起きた被害は、国民が等しく受忍(我慢)しなければならない〟という国民受忍論を振りかざし、いまだ民間の空襲被害者への補償を拒否。「被害者に対する支援を行うのは政治の責任。野党はすべて、救済法案に賛成している。今国会で法案を成立させるために力を尽くす」とマイクを強く握りました。
最後に参列者が追悼碑に献花を行い、静かに手を合わせました
集会後は浅草寺周辺の戦跡や史跡を、約1時間かけてガイドが無料で案内する「浅草戦跡めぐり」を開催。あの日焼死体で埋め尽くされた言問橋、焼失を免れた二天門、浅草寺の境内に残る焼け焦げた銀杏の巨木など、ガイドの説明に耳を傾けながら戦火の爪痕を目にし、参加者は平和の尊さを胸に刻みました。
【東京民報2012年3月21日号より】