
当時、山本さんは小学校2年生。20人くらいの班で登校していたところ、一瞬の閃光を浴び、爆風で地面にたたきつけられ、意識を失いました。目が覚めると、周囲は灰や煙、粉じんなどが混沌として薄暗く、学友の姿はありません。慌てて帰宅しましたが、家は見る影もなし。母は弟に授乳していたため、上半身にガラスの破片が無数に突き刺さり血まみれ状態。家具の下敷きになっていた祖父母を引っ張り出し、外出先から戻った妹と6人で、山の防空壕へと逃げました。
1945年8月6日、午前8時15分、江戸川区原爆被害者の会「親江会」の山本宏会長(83)は、爆心地から2.5㌔西側の己斐地区(現・広島市西区)で被爆しました。あの日の惨劇を忘れるため、原爆の情報から目をそらし、耳をふさぎ、沈黙を続けましたが、4年前に人生が一変。「親江会」で積極的に活動していた最愛の妻が闘病の末、17年1月に74歳で他界。同年7月、「親江会」からの要望を受け、区内で行われた原爆犠牲者の追悼式で、亡き妻と自身の壮絶な被爆体験を人前で初めて語りました。後世に記憶をつなぐことに意義を見出した山本さんの思いを紹介します。
街路樹の陰にいた山本さんは、大木が光線を遮ってくれたものの、後頭部と腕にひどいやけどを負いました。数日するとやけど部分がただれて膿み始め、ハエが卵を産み、首や後頭部にかけてウジ虫が動き回り、筆舌に尽くしがたい痛みが続きました。母親は何十年もの間、体内からガラス片が出てきたそうです。「街中で死んだ人を焼いとるわけよ。小学校の校庭に穴を掘り、約 2000人の人間を積んで燃やした。傷の痛みと市内にこもった死臭を思い出すのはつらい」と振り返ります。
人生初の被爆証言の場では70余年間封じ込めていた壮絶な記憶があふれ出し、感情が高ぶって原稿が読めなくなりました。「代読してもらい、最後の3分の1くらいをまた自分で読んだ。本当に情けない。喋れんかったですよ」。それ以来、講演では原稿を読まず、思い出したことを言葉にするようになりました。
同級生との再会
2年前に山本さんは、「親江会」の会長を任されます。山本さんに同会で活躍するきっかけを与え、会長にも推薦したのは、10年ほど前から同会で活動を続ける高校時代の同級生、運営事務局の貫泰夫さん(83)です。貫さんは爆心地から南東約2・7㌔の場所で被爆。比治山の裾にいたことから爆風は受けたものの外傷はなく、頭上には青空が広がっていたそうです。「柔道部で山本と乱取りをしたら、こんなやつがいるんかと思うくらい強かった」と、貫さんは高校時代の山本さんを語ります。

高校卒業後はそれぞれ大学に進学し、山本さんは土木・建築の仕事に就きました。1964年の東京オリンピック開催前に京都工区の新幹線を手掛けたほか、広島空港や羽田空港、日本銀行本店本館など、大規模な建造物に携わり、50歳で上京。70歳過ぎまで設計士として働きました。貫さんは26歳で上京し、証券の仕事をしながら芸能プロダクションの会社を設立。数十年後に偶然にも江戸川区で2人は再会し、今では核兵器廃絶を願い、「親江会」でともに活動しています。
証言と模型で伝承

昨年11月、「すみだ平和原爆写真展実行委員会」が所有していた広島に落とされた原爆「リトルボーイ」の原寸大模型を、「親江会」が引き継ぎました。模型の制作者は14歳で被爆し、2005年に74歳で亡くなった福地義直さん。長崎に被害をもたらした原爆「ファットマン」の模型とともに、個人で開いた墨田区の展示室に並べて公開していました。しかし、保管場所が確保できなくなり、引き取り手を探していました。「ファットマン」は今年7月、新潟県の市民団体に譲渡。山本さんは「(2つとも引き継げず)責任を感じていたので安心した」と話します。
現在「リトルボーイ」の模型は、小学校の平和授業などで被爆体験を語り継ぐ際に利用しています。「原爆がどんなに怖いか知らせるのに、模型があると説明しやすい。子どもたちの興味も違う」と、視覚的に訴える大切な存在になっています。被爆体験を語ると悪夢にうなされる日もありますが、今は「子どもたちに伝えるのに意義を感じている。どうせ喋らないかんのなら、しっかり伝えたい」と、真剣に向き合っています。
貫さんは言います。「山本は会長として最高よ。無駄口が少ないけど、人前ではきちっと喋る。妻の和子さんが冥土から声援を送っていますよ」。山本さんにとっての貫さんは「全幅の信頼を置ける人」です。今年は10月9・10日に江戸川文化センターで「戦争展」を企画しており、原爆模型や資料の展示、映画上映、被爆電車の工作のほか、2人の被爆体験対談など、様々なイベントを予定しています。
山本さんは詩吟やゴルフ、麻雀、彫金アクセサリー作りなど、多彩な趣味を楽しみつつも、2年ほど前にガンが見つかり、病ともたたかっています。「戦争展」後は、抗がん剤の治療を始める予定。「今年に入り、会員が8人亡くなった。ずっと過去に背を向けて黙っていたが、始めたからには最後まで続ける」と被爆証言を使命として捉え、強い決意で語ります。
〈東京民報2021年8月29日号より〉