ドラマ「アテンションプリーズ」(1970年放送)でスチュワーデス(客室乗務員)は女性の憧れの仕事になりました。友人たちと日本航空の採用試験を受けた当時、内田妙子さんは面接で「長く働きたい」と答え採用されました。「職場の花」として女性は30歳定年や結婚・出産退職が当然という時代。訓練を受けた専門職である客室乗務員も例外ではありませんでした。空の安全と処遇改善のため客室乗務員組合で活動し、航空労組連絡会で初の女性議長を務めた内田さんに、ジェンダー平等を切り開くたたかいを聞きました。
内田さんが新卒で日本航空(JAL)に客室乗務員として入社した1974年当時、女性客室乗務員の定年は30歳で結婚したら退職という決まりでした。8月から入寮し乗務のための訓練が始まり、訓練生のバッジが外れたのは1975年。訓練中に「結婚退職」の規定がなくなりました。
内田さんは入社とともに日本航空客室乗務員組合(現在の日本航空キャビンクルーユニオン=CCU)に加入。会社による激しい組合分断攻撃も体験しました。
「制服がひざ上10㌢のワンピースの時がありました。荷物を持って上の棚にあげる時には、さらに短く上がりますよね。男性の目を気にしなくてはいけません」と内田さん。「女性は未婚で若ければいい。接客中心であり、接客を受けるのは男性が想定されています」と、当時の会社にジェンダー平等の視点が欠けていたことを指摘します。
乗務を始めると華やかなイメージの仕事だけではありませんでした。深夜乗務や重いワゴンを押すなど肉体的にも重労働で健康被害も少なくなく、3~4年で退職していく人が多い現実を見たといいます。「働く環境を良くしていかなくてはいけない」という組合員の先輩の後姿を見て、ストライキ時の乗務スケジュールを書き写すなど組合の手伝いから組合活動に携わったと振り返ります。
昇進で男女の賃金に格差が
当時、女性客室乗務員は30歳で乗務資格を失う一方で、男性は30歳前にパーサーに昇格し、チーフパーサーとして経験を積み、60歳の定年までの終身雇用制度が機能していました。その中で内田さんは「面接でどのくらい勤めたいですかと聞かれたのは、こういうことだったのか。女性はなぜ、チーフになれないのか」と思いを巡らせたといいます。役職により基本給や役職手当、乗務手当が違うため、昇進が遅いということは一時金も含めると収入に大きな格差が生じます。
このような状況下でCCUは当事者の声を調査し、要求あるものを先頭に働く女性の権利を求めて、腰痛の職業病認定を始め、女性の定年の延長、結婚、妊娠出産後の乗務可能など、様々な運動で道を開いてきました。内田さんは「70年代は壁を何枚も破ってきました」と語ります。実態調査を土台にした改善要求が功を奏し、他社にも波及し業界全体の水準を引き上げてきました。