【 #Web東京民報 連載】⑪夏目金之助と小屋保治の間にたった、斎藤阿具 池内俊雄
- 2022/6/19
- WEB版連載
金之助(漱石)が松山に赴任するに至ったのは、帝大の書記官兼舎監の清水彦五郎が宮城控訴院長の大塚正雄に依頼され、一人娘の楠緒子の婿の候補として、小屋保治と夏目金之助の二人を推挙したことに起因する。父の正雄は法科生を望んだが、文学好きの楠緒子本人の強い希望で、文科の2人が選ばれた。
明治26年(1893年)の8月、楠緒子が避暑のため母と興津の松濤園に滞在中、小屋保治は絵を描いている楠緒子の姿に一目惚れした。23日の朝、友人で歴史学者となる斎藤阿具は小屋と共に東京に戻るが、これが実質上の見合いで、宿舎に寂しく残っていた金之助の心情は以下の文面から窺うことができる。
其時今の大塚君が新しい革鞄を買つて帰つて来て明日から興津へ行くんだと吹聴に及ばれたのは羨やましかった。やがて先生は旅行先きで美人に惚れられたと云ふ話を聞いたら猶うやましかつた。
また斎藤阿具の日記から、阿具本人・保治・金之助で(時には別の者が加わる)外出した日を拾い出すと、以下のようになる。( )内は場所・目的。
明治26年 3月25日(木下川)、8月23日(午餐)
9月10日(散歩)、10月22日(品川・観月)
10月28日(入谷・観菊/保治はいない)
12月17日(音楽学校・音楽会)
明治27年 1月30日(散歩)、3月18日(三河島・千住・向島・散歩)
7月8日(浅草公園・観劇)
7月29日(伊香保から金之助の書状あり、その返書)
恐らくは、金之助と保治だけで出かけた場合もあったと思われる。阿具が「今僕の日誌中より君(=金之助)に関するもので、幾分参考になるものを挙げて見る」と断っているが、詳細については明言を避けながらも、両者の間に立って苦労していた様が見てとれる。金之助は明治27年7月25日に伊香保の萩原旅館に投宿、帰省中の小屋に旅館まで来るように葉書を出した。
帰京後に金之助は帝大の寮を出るが、阿具が「翌年(=明治27年)の夏頃までは、君と小屋君と僕は同室であったと思ふ」と書いている通り、阿具の日記からはこの夏以降3人で行動を共にした形跡はない。恐らく小屋は萩原旅館で金之助に面会し、それまでの阿具の調停も虚しく、両者の関係は「調和する機会」を永久に失ったものと見られる。保治が金之助について「同君の性行を踊如(やくじょ)とさせるやうなインシデントが記臆に残っていない(『学生時代の夏目君』)」と書いているのは、逆に金之助との間に重大な事態が発生した事を印象付ける結果になっている。
(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年6月28日号より〉