1954年3月1日。赤道近くの太平洋に浮かぶマーシャル諸島のビキニ環礁で巨大な閃光と轟(ごう)音とともにキノコ雲が出現しました。アメリカがおこなった水爆実験によるもので、爆心の海底に直径約2㌔、深さ73㍍のクレーターが生まれ、そこから吹き上げられたサンゴの粉じんが死の灰となって、爆心地から160㌔離れた海域で延(はえ)縄漁法によるマグロ漁をおこなっていた第五福竜丸に降り注ぎました。
この時のキャッスル作戦「ブラボー実験」と呼ばれた水爆の威力は広島型の原爆の1000倍(15メガトン)の破壊力をもち、死の灰は約240㌔離れたロンゲラップ環礁にも降下しました。
アメリカは1946年から58年までマーシャル諸島を実験場として67回もの核実験を実施。日本の被爆船舶数は1423隻(2015年水産省発表)にも及び、マーシャル群島に暮らしていた人々にも甚大な被害をもたらしました。
第五福竜丸では23人の乗組員全員が被曝。被曝半年後には無線長であった久保山愛吉さんの尊い命が奪われました。また、国内でも全国各地に死の灰が降り注ぎ、原水爆禁止を求める署名運動が急速に広がりました。そして、その年の8月には原水爆禁止署名運動全国協議会が結成され、翌年には第1回の原水爆禁止世界大会が広島で開かれることになりました。
原水爆による惨事がふたたびおこらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。 (展示館設立趣旨)
第五福竜丸はやがて廃船となり、当時、ゴミの処分場であった「夢の島」の埋立地に放置されていましたが、これを知った市民や団体が保存運動に立ち上がりました。当時、革新都政(美濃部亮吉都知事)は、平和・核廃絶を求める都民の願いに応えて原爆展の開催や国連への核廃絶の要請などの取り組みをすすめていましたが、第五福竜丸についても“歴史の生きた証人”として保存することとし、夢の島公園のなかに展示館を建設、展示公開することになったのです。
館内では木造の全長30㍍、高さ15㍍、幅6㍍の船体を間近に観察、また直接手で触れることができ、船員の被曝の状況やマーシャル諸島や世界の核被害、核実験・核開発年表や核兵器禁止運動の資料などとともに、「死の灰」も展示されています。
屋外には三重県熊野灘沖の海中から引き上げられた第五福竜丸のエンジンの展示、久保山愛吉記念碑、元乗組員などが10円募金で建設したマグロ塚があります。
久保山愛吉さんは、「原水爆の犠牲者はわたしを最後にしてほしい」という言葉を残して亡くなりました。ロシアのプーチン政権によるウクライナ侵略と核危機。いま、私たちに、久保山さんの残した言葉を果たす責任が課せられているのではないでしょうか。