【 #Web東京民報 連載】22 執筆活動の原動力、鹽原昌之助・やす夫妻
- 2022/12/4
- WEB版連載

喜久井町の名主夏目小兵衛の八番目の子として金之助(漱石)は生まれた(異母姉二人あり、すぐ上の姉と兄は夭折)。金之助は「子としての待遇を与へ」られないまま、四谷の古物商の家に里子に出されたが、軒先のお鉢の中に入れられていたような状態らしく、すぐに戻される。『我輩ハ猫デアル』の冒頭部分に「どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャーと泣いて居た事丈は記憶している」とある。続いて猫は「書生という人間の中で一番獰悪(どうあく)な種族」を見るのであるが、その「書生」というのは、1歳の時に養父となった鹽原昌之助が念頭にあったと思われる。昌之助は夏目家に書生として仕え、小兵衛の仲立ちでやはり夏目家に奉仕していた、やすと結婚していた。猫の述懐は「書生といふのは時々我々を捕らへて煮て食」ったらしいが「其当時は何といふ考えもなかった」と続き、やはりまだ記憶の定まらない、乳児期の原体験が反映されているのであろう。
行政区の度重なる変更、昌之助の女性問題などで、一時は養母やすとともに夏目家に戻るなど、金之助は住まいを目まぐるしく変え、養父母の離婚により昌之助のもとに戻され、離婚の原因となった相手、日野かつとその子れんと暮らした。昌之助には、れんと金之助を一緒にさせる考えがあったとする説もあるが、養家に身の置き所のない金之助は鹽原姓のまま夏目家に戻った。正岡常規(子規)への書簡(明治28〈1895〉年12月18日)で、「…小児の時分より『ドメスチック ハッピネス』などいふ言は度外に付しをり候へば、今更ほしくも無之候」と書いているように、家庭環境には恵まれなかった。

父小兵衛の態度が変わったのは、上の二人の兄が相次いで病死してからで、夏目家を継げるのが三男の直矩だけになったため、小兵衛は金之助の鹽原姓からの復籍を急いだ。小兵衛は昌之助・かつに対して、金之助の「養育料」として240円を支払うことで合意し、内170円は一括で、残り70円は毎月3円ずつ払うことになった(明治21年1月)。後に昌之助は「互に不実不人情に相成候はざる様致度存候也」という文言を盾に金銭を要求、明治42年に更に100円を支払って「金銭上ノ依頼ハ勿論其他一切之関係ヲ斷絶」することができた。
一方のおやすは酒屋の後家に入り、熊本に赴任した金之助に長い手紙を送って、如何に自分が身を粉にして面倒みてやったのかをとうとうと説いた。金之助が修善寺で血を吐いた頃、一年に一度ぐらいはやって来て、少々の小遣いを金之助が渡したようである(夏目鏡子述『漱石の思い出』)。
幼少期の養父母との暮らしや、昌之助が人を立てて金銭をせびろうとする経緯は『道草』の中につぶさに描かれている。
(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)
〈東京民報 2020年12月6日号より〉