史実語る建物、失わせない 多磨全生園 厳しい暮らし支えた信仰〈2024年4月28日・5月5日合併号〉

 東京の北西部、東村山市にある国立療養所多磨全生園(ぜんしょうえん)に複数の宗教施設が集まる「宗教エリア」が存在します。ハンセン病患者を収容するため、1909(明治42)年に第一区連合府県立療養所全生病院として始まり、1941(昭和16)年に厚生省に移管され、現在に至ります。武蔵野の面影を残す雑木林に包まれた35万3585平方メートル、東京ドーム球場の約7.5倍の敷地に、ピーク時の1943(昭和18)年には1518人が暮らし、居住者による自給自足でひとつの街が形成されていました。同エリアをハンセン病の史実を研究する稲葉上道(たかみち)さんと訪ねました。

 ハンセン病は”らい菌”という感染力が極めて弱い病原菌による感染症で、現在は完治できる病気です。しかし有効な治療法のなかった時代には「感染力が極めて強い」「遺伝である」との誤解や差別が横行し、忌み嫌われることも多く、居所を追われて放浪する患者も存在。そうした中で行政による隔離政策がとられるようになりました。

 政府は1931(昭和6)年には「癩(らい)予防法」により全患者の強制的な隔離政策にかじを切りました(別項)

 1930 年頃から1960年代にかけて、行政主導で「無らい県運動」が行われ、ハンセン病患者を県内から一掃して療養所に隔離するという方針が堅持されます。「らい病患者輸送中」との掲示をした”お召し列車”やトラックで療養所に運ばれたといいます。ハンセン病が治る病気になり、諸外国が隔離政策を改めても、日本では続けられました。

死んでも故郷に戻れず

関連記事

最近の記事

  1.  国立科学博物館(台東区)で11月1日から2月23日まで、特別展「大絶滅展」が開催中です。生命が誕…
  2. 「低賃金、長時間拘束では住民の足となる公共交通は守れない」―全労連ローカルセンターと連帯する私鉄・…
  3.  日本勤労者山岳連盟(都連盟)の創立60周年記念講演会が10月25日、プロフリークライマーの平山ユ…
  4.  戦後80年に戦争と平和について考えようという「高校生平和のつどい」が11月23日、新宿区内で開か…
  5.  昭島市内のゴルフ場跡地に大型物流施設とデータセンター(DC)の建設着工が強行された問題で、計画見…

インスタグラム開設しました!

 

東京民報のインスタグラムを開設しました。
ぜひ、フォローをお願いします!

@tokyominpo

2024年4月
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930  
ページ上部へ戻る