東京の北西部、東村山市にある国立療養所多磨全生園(ぜんしょうえん)に複数の宗教施設が集まる「宗教エリア」が存在します。ハンセン病患者を収容するため、1909(明治42)年に第一区連合府県立療養所全生病院として始まり、1941(昭和16)年に厚生省に移管され、現在に至ります。武蔵野の面影を残す雑木林に包まれた35万3585平方メートル、東京ドーム球場の約7.5倍の敷地に、ピーク時の1943(昭和18)年には1518人が暮らし、居住者による自給自足でひとつの街が形成されていました。同エリアをハンセン病の史実を研究する稲葉上道(たかみち)さんと訪ねました。
ハンセン病は”らい菌”という感染力が極めて弱い病原菌による感染症で、現在は完治できる病気です。しかし有効な治療法のなかった時代には「感染力が極めて強い」「遺伝である」との誤解や差別が横行し、忌み嫌われることも多く、居所を追われて放浪する患者も存在。そうした中で行政による隔離政策がとられるようになりました。
政府は1931(昭和6)年には「癩(らい)予防法」により全患者の強制的な隔離政策にかじを切りました(別項)。
1930 年頃から1960年代にかけて、行政主導で「無らい県運動」が行われ、ハンセン病患者を県内から一掃して療養所に隔離するという方針が堅持されます。「らい病患者輸送中」との掲示をした”お召し列車”やトラックで療養所に運ばれたといいます。ハンセン病が治る病気になり、諸外国が隔離政策を改めても、日本では続けられました。