【 #Web東京民報 連載】文学散歩 漱石・人間交差点 ③漱石の懐刀、野村伝四 池内俊雄

 野村伝四、と聞いてその人となりをすぐに思い浮かべられる人は、かなりの通であろう。金之助(漱石)が一高・帝大で教鞭をとっていた時期の教え子の一人で、『帝国文学』や『ホトトギス』に寄稿するも、文章の道では大成しなかったが、伝四の体験は金之助の初期の作品に巧みに投影されている。

 『三四郎』の冒頭、九州から山陽道を経て上京の途にあった三四郎は、京都から相乗りになった女性と名古屋で一夜を過ごすことになる。三四郎が風呂に入っていると、「ちいと流しましょうか」といって女性が入って来そうになる。また布団が一組しか用意されておらず、三四郎は蚤除の工夫だと断ってタオル二本で縦に境界をこしらえて、身じろぎもせずに夜を明かす。翌朝、駅での別れ際に女性から「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と言われ、ホームの上にはじき出されたような気持ちになる。

落第横丁(文京区本郷) 「落第横丁」の名前で知られる「松屋横丁」。この名前は、横丁が中山道(国道17号)に面した角に「松屋ノート店」があったことによる。金之助もここで原稿用紙を購入した。

 この女性とのやり取り(企画展「漱石と野村伝四」の図録にある、伝四の体験として家族が聞いた内容より)は、『三四郎』の中のハイライト・シーンであると同時に後々の作品と共通するテーマ、つまり「大抵の男は意気地なしね、いざとなると」(『行人』より)と通底する自我像であり、ひいては教え子や出入りする門下生への警鐘でもある。

 野村伝四は明治13(1880)年鹿児島県肝属郡生まれ、明治33年に一高、明治36年に帝大に進み、英文学研究や創作において直に薫陶を受けた他、金之助の個人的な用足し(給与の受け取り、借家探し、下調べ)にも頻繁に出向いている。いわゆる修善寺の大患で大量失血した際、枕元に付き添うのを許されたのは伝四と安倍能成の2人だけであった。金之助の自宅での集まりにおいても、伝四が金之助の隣に侍はべっていたのは、それだけ信が厚かったことを示しており、また控えめで泰然自若としている気質が、金之助の最も愛した弟子と称されるゆえんであろう。

 大学進学時は島津奨学会の運営する「同学舎」に寄り、明治37年の末には、本郷6丁目25の三軒長屋の一つ「藪中」に下宿した。同年11月の金之助の手紙には、藪中の住所を示してその隣に新しい貸し二階がある事を寺田寅彦に伝えている。寅彦はそこには住まなかったが、金之助は藪中の伝四を尋ねたようである。金之助が小説『こころ』で下宿生活を描くには、伝四の薮中での生活が参考になった可能性もある。藪中は現存していないが、面していた横道は「落第横丁」の名で知られ、今でも喫茶店、定食屋、本屋などがひっそりと当時の雰囲気を伝えている。

(いけうち・としお 日本文化・文学研究家)

〈東京民報 2020年3月1日号より〉

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