今回の企画展で初公開された歴史絵巻に描かれた当時の様子やメッセージを読み解き、未来の共生社会を考えるイベント「関東大震災から100年の今を問う」が7月31日開催されました。
前高麗博物館館長の新井勝絋さんが、これまで出会ってきた「虐殺絵」について講演しました。
虐殺を描いた絵は、政府が事件の隠蔽いんぺいをはかったことから、世に出ているものが少ないことに加え、存在すらも明らかになっていません。新井さんが虐殺絵に出会ったのも過去に4回だけです。
子どもたちが描く
初めて出会ったのは、本所区(現在の墨田区)の本横小学校の児童が描いたもの。東京都復興記念館に所蔵されています。
当時4年生の児童が描いた絵には、自警団らしき人々が道行く人に尋問をする様子が描かれています。自警団は朝鮮人を見分けるために、朝鮮語で発音しづらい「15円50銭」と言わせる、歴代天皇の名を唱えさせるなどしました。同じく4年生の児童は、千葉県の中山(市川市)で、複数の軍人が一人の朝鮮人に武器を持って襲い掛かる様子を描きました。新井氏は「おそらくこの先の運命も目にしたのではないか」と推測します。
子どもたちが見聞きした事件の様子は作文などにも残され、虐殺が場所を選ばず日常の中で行われたことがわかります。
歴史に埋められ
二つ目は1995年に国立歴史民俗博物館が購入した水彩画。顔から血が噴き出る人に、なお男たちが殴り掛かる、その周辺にはすでに息を引き取った後ろ手に縛られた4人の遺体、新たに連行されてきた人など、さらに川べりでの虐殺に参加せんばかりに取り巻く群衆…。軍人、警察、自警団、民衆が一体となって白昼に虐殺が行われたことを示す強烈な絵です。
表題・作者・日付など一切の情報がなかったものの、挿絵画家の河目かわめ悌てい二じの作品であることを突き止めました。震災を東京で経験した河目は、この記憶を記録することを決意したのでしょう。しかし、「没後この絵を公開しないように」と言い残して1958年に亡くなりました。
1996年に発見された萱原白洞の3巻の絵巻物「東都大震災眼録」にも、警察と自警団が一緒に事件を引き起こした様子が描かれています。
事件を隠ぺいした、軍国主義の時代が両氏の絵を埋もれさせていたと新井氏は語りました。
偶然の発見
高麗博物館にも展示されているのが、新井氏が2年前にネットオークションで偶然落札した、淇谷きこくの「関東大震災絵巻」です。淇谷は雅号で福島県の小学校教師を務めた大原彌市やいちのことで、絵巻物を書いた1926年は64歳でした。
絵巻は地震発生直前の穏やかな東京の街の描写から始まり、震災の被害を伝え、やがて虐殺の現場、犠牲者がモノのように積み重ねられた様子を描きます。巻末には、この経験をしなかった人々に「省慮の念を促し」たいと記されています。震災を経験しなかった大原が見聞きしたことをもとに、描くのもつらい虐殺を残した理由です。
差別克服するには
新井さんは、「虐殺を引き起こした官民の差別意識を克服できているか。まだ歴史にすらなっていないのでは」と問いかけました。
「朝鮮人大虐殺はなかったなんてとんでもない」と言うかのように、虐殺の証拠を示す絵が見つかっています。新井さんは、「一枚一枚の絵の訴える力をどう使うべきか」と否定論に立ち向かっていこうと訴えました。
河目悌二、淇谷の虐殺絵は、高麗博物館で展示されています。
関東大震災
1923年9月1日午前11時58分に発生した最大震度7、マグニチュード7.9の大地震。東京・横浜を中心に死者・行方不明者は推定10万5000人(うち9万2000人が直後に発生した火災で死亡)、被災した住居は総計37万棟と、明治以降の日本の地震被害としては最大規模。
東京民報2023年8月13日・8月20日合併号より